細川家の根本家臣「青龍寺以来」の中に的場氏がある。資料としては初代甚右衛門正簾の、戦場における活躍ぶりが「綿考輯録・巻二巻」に次のように出てくる。
「天正三年十月、信長より物集女縫殿入道宗入を御誅伐被成候、松井方にて討ち取る。
物集女か小姓尾崎次右衛門を的場甚右衛門正廉(まさたけ)組留しなりと云々。」
侍帳に於いては古くは「妙解院忠利公御代豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」に甚右衛門の子、的場勘平(嫡男カ)・平三郎(二男)などの名前が見える。「真源院様御代御侍免撫帳」に甚右衛門・二百石とあるが、これは初代ではないようである。勘平家に分家が出来て的場家は三家が明治に至った。
的場氏の出自については定かではないが、土地の名前ではないかと思いぐぐって見ると、川越や広島に的場という地がある。さてどうなのか・・?
平成18年秋の「古書籍即売展」に、的場家の宛行状20点が出たことが有った。
果たしてどこに納まったのか承知していない。
「天正三年十月、信長より物集女縫殿入道宗入を御誅伐被成候、松井方にて討ち取る。
物集女か小姓尾崎次右衛門を的場甚右衛門正廉(まさたけ)組留しなりと云々。」
侍帳に於いては古くは「妙解院忠利公御代豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」に甚右衛門の子、的場勘平(嫡男カ)・平三郎(二男)などの名前が見える。「真源院様御代御侍免撫帳」に甚右衛門・二百石とあるが、これは初代ではないようである。勘平家に分家が出来て的場家は三家が明治に至った。
的場氏の出自については定かではないが、土地の名前ではないかと思いぐぐって見ると、川越や広島に的場という地がある。さてどうなのか・・?
平成18年秋の「古書籍即売展」に、的場家の宛行状20点が出たことが有った。
果たしてどこに納まったのか承知していない。