嶋田氏の祖・徳左衛門は加藤清正臣、忠広代浪人し京都に浪居した。
初代郷蔵が召し出され、初め細川利重(綱利弟)に仕、後二男宣紀御附となった。
どこで運が開けるか判らない。宣紀が綱利の養嗣子となり藩主の側近と成るのである。
2代・郷右衛門 百五十石 御部屋付、3代・郷右衛門(初・万平 伊大夫)、4代・嘉津次と続くが、家禄は百五十石である。しかしこの嘉津次をもって、嶋田家「中興の祖」というべきだろう。宝暦の改革に抜擢されて尽力した。
天明五年十月~天明七年十月 下益城郡代
寛政元年八月~寛政二年十月 熊本町奉行、寺社奉行兼
寛政二年十月~寛政四年九月 奉行副役
寛政四年九月~文化五年閏六月 奉行
文化三年五月~文化六年五月 大奉行助勤
文化七年七月~文化十四年三月(致仕)大奉行
文化九年十月~文化十四年三月(致仕)中老 千弐百石 と上り詰める。
以降子孫は高禄の家として明治に至っている。肥後人名辞典は次のように紹介している。
【島田撫松】
名は貞孚、嘉津次と称し、撫松と号す。幼より聡明なる上に刻苦勉励しければ
才名漸く高し。後身を藩政に致し家老職兼大奉行となる。禄千弐百石。
宝暦の改正を成就するに最力あり。
文政二年十月二日没す。年六十五。墓は本庄静安寺。
初代郷蔵が召し出され、初め細川利重(綱利弟)に仕、後二男宣紀御附となった。
どこで運が開けるか判らない。宣紀が綱利の養嗣子となり藩主の側近と成るのである。
2代・郷右衛門 百五十石 御部屋付、3代・郷右衛門(初・万平 伊大夫)、4代・嘉津次と続くが、家禄は百五十石である。しかしこの嘉津次をもって、嶋田家「中興の祖」というべきだろう。宝暦の改革に抜擢されて尽力した。
天明五年十月~天明七年十月 下益城郡代
寛政元年八月~寛政二年十月 熊本町奉行、寺社奉行兼
寛政二年十月~寛政四年九月 奉行副役
寛政四年九月~文化五年閏六月 奉行
文化三年五月~文化六年五月 大奉行助勤
文化七年七月~文化十四年三月(致仕)大奉行
文化九年十月~文化十四年三月(致仕)中老 千弐百石 と上り詰める。
以降子孫は高禄の家として明治に至っている。肥後人名辞典は次のように紹介している。
【島田撫松】
名は貞孚、嘉津次と称し、撫松と号す。幼より聡明なる上に刻苦勉励しければ
才名漸く高し。後身を藩政に致し家老職兼大奉行となる。禄千弐百石。
宝暦の改正を成就するに最力あり。
文政二年十月二日没す。年六十五。墓は本庄静安寺。