津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・嶋田氏

2009-09-18 20:10:56 | 歴史
 嶋田氏の祖・徳左衛門は加藤清正臣、忠広代浪人し京都に浪居した。
初代郷蔵が召し出され、初め細川利重(綱利弟)に仕、後二男宣紀御附となった。
どこで運が開けるか判らない。宣紀が綱利の養嗣子となり藩主の側近と成るのである。
2代・郷右衛門 百五十石 御部屋付、3代・郷右衛門(初・万平 伊大夫)、4代・嘉津次と続くが、家禄は百五十石である。しかしこの嘉津次をもって、嶋田家「中興の祖」というべきだろう。宝暦の改革に抜擢されて尽力した。
       天明五年十月~天明七年十月 下益城郡代
       寛政元年八月~寛政二年十月 熊本町奉行、寺社奉行兼
       寛政二年十月~寛政四年九月 奉行副役
       寛政四年九月~文化五年閏六月 奉行
       文化三年五月~文化六年五月 大奉行助勤
       文化七年七月~文化十四年三月(致仕)大奉行
       文化九年十月~文化十四年三月(致仕)中老 千弐百石 と上り詰める。
 以降子孫は高禄の家として明治に至っている。肥後人名辞典は次のように紹介している。
 【島田撫松】 
    名は貞孚、嘉津次と称し、撫松と号す。幼より聡明なる上に刻苦勉励しければ
    才名漸く高し。後身を藩政に致し家老職兼大奉行となる。禄千弐百石。
    宝暦の改正を成就するに最力あり。
    文政二年十月二日没す。年六十五。墓は本庄静安寺。
      
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細川家家臣・樹下氏 / 生源寺氏

2009-09-18 19:09:32 | 歴史
 樹下氏はどうやら「じゅげ」氏のようだ。生源寺氏は「しょうげんじ」氏である。
侍帳に於いては大変都合の良い事に、「し」の欄に二家とも登場していてありがたい。
二家の初代樹下寿斎と、生源寺大炊之助が兄弟であり「青龍寺以来」の家柄であるとともに、二人とも「田邊城籠城衆」である。日吉神社社家の一族として知られる。
      www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_hie.html

■樹下左馬之助(入道寿斎)【青龍寺以来】【田辺城籠城衆】  
     此時迄ハ御合力にて被召置候ひしか、田辺の首尾よかりしとて、三百五十石
     被下候、父は江州坂本山王の神主樹下左近太夫治元(領三万石浅井備前守
     妹婿也)其嫡子左近元国病気によりて、法躰入斎と改、二男左馬之助之治親
     の跡を継、天正元年浅井一族ほろひ、左馬助も所領改易せられ、坂本の在所
     江引込、入道寿斎と改、父左近已来御入魂のゆえを以、青龍寺にても御懇、
     丹後江御入国已後も朝夕参上、御碁の御相手なと仕、御伽相勤申候、御籠城
     之節生源寺大炊(弟)と両人に被仰付、古郷江加勢の人数申遣候、豊前入国
     之節、寿斎兄入斎、入斎子作蔵御供仕候、其後三人共に病死仕候
                        (綿考輯録)
     三斎様御付中津ニ相詰候衆 三百五十石 (於豊前小倉御侍帳)

■生源寺大炊之助(入道甚斎)【青龍寺以来】【田辺城籠城】
     嶺山城に居候か、直ニ田辺にきたり、籠城いたし候、追手右の持口嶺山衆各と
     有内なるへし、もとハ江州坂本の者なり、浅井備前守旗下にて、信長にハ敵筋
     に候得とも、藤孝君御年比(懇ろ)の者故、青龍寺に比召寄御合力、米五十石
     ニ而御側ニ被召出、丹後へも被召連、今度御人数少く御座候間、旧郷に人数
     可申遺由、樹下左馬助と両人に仰付られ、其段申遺、寿下入斎人数催罷越候
     (中略)参着之節は関原落去之砌にて、直ニ人数ハ返し、御褒美として幽斎君
     より三原の御腰物拝領、法躰仕候節、斎の字を被下、甚斎と改候様被仰付、其
     節も御脇差拝領、果候迄御城内北の丸櫓御預被置候
    ・樹下佐左(右)衛門 (大炊助 清忍)
         (1)馬廻組三番 「青龍寺」 八百石 (於豊前小倉御侍帳)
         (2)御馬廻衆 三百石 (肥後御入国宿割帳)
  
浅井本宗家 ・1
 浅井直政------●
         2  ∥
    +---浅井亮政---久政---長政---万菊丸・・・・・・・→細川家家臣・浅井家
    |
    +--------●
            ∥
     樹下左近大夫---+--左近近元---作蔵
                | 家督
                +--左馬之助(寿斎)・・・・・・・→細川家家臣・樹下家  
                |
                +--生源寺大炊之介・・・・・・・→細川家家臣・生源寺家
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「茶人 豊臣秀吉」

2009-09-18 17:23:38 | 書籍・読書

茶人 豊臣秀吉
著者:矢部 良明 
出版社:角川学芸出版 
定価(税込):1680円


【本の内容】
桃山時代、天下統一を達成した豊臣秀吉が好んだ茶の湯とは、どんなものであったのだろうか。「千利休は辛気臭い、茶の湯は面白く楽しくあるべきだ」と考える秀吉の茶の湯は多くの賛同をうるとともに追随者を生んでいった。当時の日記や書状などを通して、秀吉の茶人としての実像を炙り出しながら、茶道の主役と考えられていた千利休を超えて、秀吉が茶道界に絶大な影響力を及ぼしていく姿を生き生きと描き出す。

【目次】
第1章 茶の湯に目覚めた豊臣秀吉(描きたい茶人秀吉像
茶に心が弾んでならない好漢、秀吉 ほか)
第2章 利休創作茶の湯を発展させる秀吉(秀吉と利休と、侘びと寂びと
侘人を視野にいれよう ほか)
第3章 天下人・豊臣秀吉の茶の湯(秀吉の利休創作道具の取り込みかた
秀吉の紹鴎見立て道具の取り込みかた ほか)
第4章 エンターテイナーとしての茶の湯者、豊臣秀吉(茶屋遊び
秀吉にとって茶屋とは?路地とは? ほか)
第5章 “三人の茶人”を演じ分けた秀吉(千利休の創作茶の湯のプロモーター・秀吉
武家茶の湯の確立者 ほか)

【著者情報】
矢部 良明(ヤベ ヨシアキ)
1943(昭和18)年、神奈川県大磯町生まれ。東北大学文学部美術史科修了。東京国立博物館工芸課長を経て、現在、郡山市立美術館長
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音羽のおばさん

2009-09-18 13:45:15 | 徒然
 気には成っていたのだが、とうとう聞かず終いで母が亡くなってしまったので、この「音羽のおばさん」の正体が判らない。祖母の一族の人ではないかと思われるのだが、はきとしない。鳩山さんが総理大臣になられ、音羽の「鳩山会館」が紹介されるたびに、まずかったなーと反省しきりである。旧細川邸の家政所が現在の永青文庫の建物であるが、祖父がここに勤めていた関係で、「音羽のおばさん」は時折尋ねてこられたらしい。詳しい地理は承知しないが、旧細川邸から音羽はそう遠くはないようだ。「おばさん」がこの地に住まいしたのは終戦前までのことだったらしいが、鳩山会館(旧鳩山邸)が出来たのは大正13年のことだそうだから、案外モダンで真新しい建物を目にされたかもしれない。以前も書いたが、いつかゆっくり東京の思い出の場所を歩き回りたいと思っていたが、最近の「ひざ痛」の状態を思うとなかなか実現しそうに無い。
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