最近諸家の「家紋」を盛んに眺めているが、ふとひらめく事が時折ある。
私事で恐縮だが、例えば玄祖父上田久兵衛の上田家、700石の上田新兵衛家、太郎右衛門を祖とする軍次家・箶太郎家・要蔵家の三家と、三流五家が侍帳に見えるのだが、一族ではないかと考えて来たが先祖附等の史料では結びつかない。処が家紋でつながりが見えてきたのだ。
新兵衛家の家紋は「杏葉紋」、大友一族である事が推測できる。
「肥陽諸士鑑」をみると太郎右衛門家の家紋が三つ記されており、その一つが「杏葉紋」であり、今ひとつの紋が「日の字紋(正式な名前が分からない)」である。
そして玄祖父・久兵衛家の家紋が「日の字紋」と今ひとつ記されている。
どうやら大友一族上田氏と考えてよさそうだ。
新兵衛家 杏葉
太郎右衛門家 杏葉 日の字
久兵衛家 日の字
上田氏紀氏とされ豊後の荘園の地頭であったらしい。
現在の大分県宇佐市に上田地区があり、鷹居という処に城があり上田城を築いていたようだ。宇佐市役所の前、駅館川の対岸に鷹居八幡宮がありこの場所だとされる。
細川氏の豊前入国後は宇佐は細川氏の領する所となった。大友氏没落後浪々の身であったろう上田一族が、細川家を頼ったであろう事は容易に想像できる。一族の長が「新兵衛」だったのだろうか、七百石を拝領している。
但しこれは全くの推論に過ぎないが、「ひょっとすると・・」といった類の話である。
強力な「裏」をとる必要がある。
私事で恐縮だが、例えば玄祖父上田久兵衛の上田家、700石の上田新兵衛家、太郎右衛門を祖とする軍次家・箶太郎家・要蔵家の三家と、三流五家が侍帳に見えるのだが、一族ではないかと考えて来たが先祖附等の史料では結びつかない。処が家紋でつながりが見えてきたのだ。
新兵衛家の家紋は「杏葉紋」、大友一族である事が推測できる。
「肥陽諸士鑑」をみると太郎右衛門家の家紋が三つ記されており、その一つが「杏葉紋」であり、今ひとつの紋が「日の字紋(正式な名前が分からない)」である。
そして玄祖父・久兵衛家の家紋が「日の字紋」と今ひとつ記されている。
どうやら大友一族上田氏と考えてよさそうだ。
新兵衛家 杏葉
太郎右衛門家 杏葉 日の字
久兵衛家 日の字
上田氏紀氏とされ豊後の荘園の地頭であったらしい。
現在の大分県宇佐市に上田地区があり、鷹居という処に城があり上田城を築いていたようだ。宇佐市役所の前、駅館川の対岸に鷹居八幡宮がありこの場所だとされる。
細川氏の豊前入国後は宇佐は細川氏の領する所となった。大友氏没落後浪々の身であったろう上田一族が、細川家を頼ったであろう事は容易に想像できる。一族の長が「新兵衛」だったのだろうか、七百石を拝領している。
但しこれは全くの推論に過ぎないが、「ひょっとすると・・」といった類の話である。
強力な「裏」をとる必要がある。