津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

新熊本市史 別編 第1巻 絵図・地図 編

2009-09-25 15:51:34 | 徒然
 一年以上になるらしい、ある方から「もし先祖の屋敷の場所が判れば教えてほしい」旨のお手紙をいただいていた。過日久しぶりにお手紙を戴き、最後の最後に「申し訳ないけれど・・判らないんでしょうね」とあり、しまった忘れてたと思わず声を上げてしまった。良く覚えていないのだが、判ったら熊本の地を訪ねて先祖の屋敷跡を見てみたいといった趣旨の事が書かれていたように思う。昨晩から「新熊本市史 別編 絵図・地図 編」と、虫眼鏡を取り出して「屋敷探し」を始めたが、まだ成果が上がらないでいる。なんとか今週中にと思うのだが、とにかく絵図の量が多く記入されている文字が小さいので・・・見つからなかったらどうしようと、不安で仕方が無い。

      http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/history/shokai/beppen/ezuchizu/index.html
          別編 第1巻 絵図・地図 編  B4判(上下巻)定価10,300円
■絵図・地図 上 【中世・近世】 
肥後の国絵図をはじめ、城下の武家屋敷と新発見の町絵図を克明に解読し、原図と併104点を収載。
本文246ページ
■絵図・地図 下 近代・現代 
置県後の郡村図・郡村誌を一括収載。明治~平成に至る市街図及び土地分類図など多彩に204点を収載。本文376ページ
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会津百万石

2009-09-25 13:36:43 | 歴史
 細川家記に「天正十八年庚寅七月東奥ノ鎮トシテ会津百万石ヲ賜ウノ命アリ、辞シテ受ケズ」とある。
この話はどれだけ真実味のある話だろうか。

 天正十八年(1590)の豊臣秀吉の動きを観ると、七月五日小田原の北条氏を滅亡させ、同十七日小田原を出発同二十六日宇都宮に到着、白河を経て八月九日会津黒川に入っている。そして「奥州仕置き」がなされ、伊達政宗から受渡された会津領には蒲生氏郷が配置された。秀吉のこのような多忙を極めた中で、どのような状況でそのような話がなされたのだろうか。勉強不足の小生は、史料ももたず「ほんまかいな」とあたふたしている。
 慶長三年(1598)には上杉景勝が会津に転封となったのは、大河ドラマでも知るところである。秀吉が亡くなり、慶長五年天下分け目の関が原の戦は、徳川家康の上杉攻撃が発端となっている。
 加賀百万石+細川会津百万石ともなれば、ひょっとしたらひょっとしたかもしれないが、「辞シテ受ケズ」が大正解である事は歴史が証明している。
詳しいことをご存知の方が居られれば、ご教示賜りたい。
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