新熊本市史・別編第二巻に「侍の家」の間取り図が掲載されている。
名前もはっきりしていて、1・「槙嶋真澂家」 2・「伊藤安熹家」 3・「志水元五家」 4・「澤村彌三郎家」とある。
■(1)の槙嶋真澂とは槙嶋家最後の当主(12代)であり冨次・半兵衛と称し家禄300石。家祖は槙嶋城主・槙嶋昭光(云庵)である。八畳の部屋が四つ、同じく八畳の台所、茶の間が六畳、下屋が11坪と書かれている。湯殿があり便所も大小用が夫々二つづつあり、延べ54.5坪という大きな建物となっている。玄関脇には三畳の「下女部屋」があり、明治期の建物かとも思われるが、萱葺・瓦葺の屋根が混在している。
■(2)の伊藤安熹については人物の特定が出来ないが、これも大きな家である。
■(3)の志水元五とは、宗加入道清久の二男・日下部与助(主水・伯耆・元五)であろうと思われる。備頭大頭を勤め、慶安二年八月に病死しているが、そうだとするとこの時代の間取り図は大変貴重なものである。八畳三間に九坪ほどの土間があり本屋は27坪ほどである。外に1.5坪ほどの「大釜」という建物がある。湯殿だろうか。五千石の大身であるが当時はこの程度のものであり、明治初頭の槙嶋家と比較すると大変興味深い。
■(4)の澤村彌三郎についても人物の特定が出来ないでいる。(弥一郎カ)
随分以前、久野次郎左衛門家の現御当主から久野家の間取り図をお送りいただいた。(上図)
隣家の当主なども記入されており、敷地と建物の状況がわかる大変貴重なものである。建築を生業としている私としては建築史料としても大切にしている。
名前もはっきりしていて、1・「槙嶋真澂家」 2・「伊藤安熹家」 3・「志水元五家」 4・「澤村彌三郎家」とある。
■(1)の槙嶋真澂とは槙嶋家最後の当主(12代)であり冨次・半兵衛と称し家禄300石。家祖は槙嶋城主・槙嶋昭光(云庵)である。八畳の部屋が四つ、同じく八畳の台所、茶の間が六畳、下屋が11坪と書かれている。湯殿があり便所も大小用が夫々二つづつあり、延べ54.5坪という大きな建物となっている。玄関脇には三畳の「下女部屋」があり、明治期の建物かとも思われるが、萱葺・瓦葺の屋根が混在している。
■(2)の伊藤安熹については人物の特定が出来ないが、これも大きな家である。
■(3)の志水元五とは、宗加入道清久の二男・日下部与助(主水・伯耆・元五)であろうと思われる。備頭大頭を勤め、慶安二年八月に病死しているが、そうだとするとこの時代の間取り図は大変貴重なものである。八畳三間に九坪ほどの土間があり本屋は27坪ほどである。外に1.5坪ほどの「大釜」という建物がある。湯殿だろうか。五千石の大身であるが当時はこの程度のものであり、明治初頭の槙嶋家と比較すると大変興味深い。
■(4)の澤村彌三郎についても人物の特定が出来ないでいる。(弥一郎カ)
随分以前、久野次郎左衛門家の現御当主から久野家の間取り図をお送りいただいた。(上図)
隣家の当主なども記入されており、敷地と建物の状況がわかる大変貴重なものである。建築を生業としている私としては建築史料としても大切にしている。