津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

弐桐(ふたつきり)紋

2009-09-12 18:49:32 | 歴史
 「肥後熊本藩士 寺井家先祖御書出他史料集」に、細川家の九曜紋など三つの「御紋」が紹介されている。この中に「弐桐」と書かれたものがある。紋帳を調べると最近は「入れ違い桐紋」というらしい。足利将軍家から「桐紋(五三の桐)」を頂戴しているが、徳川家康などは豊臣家の紋だからといって嫌ったらしい。徳川将軍家がそうであれば、桐紋の使用も憚られたのではないか。家臣が記録した「細川家御紋」である所をみると、この紋が通常つかわれていたのだろう。大変興味深い。又「桜紋」についても、私どもが承知している紋とは全くデザインが違うのだが、これは現在の「紋帳」では見受けられない。「葉桜紋」と紹介されている。デジカメで撮影して、改めてご紹介しようと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

證人

2009-09-12 18:12:25 | 歴史
 戦場での働きは證人があってのことである。嶋原一揆におけるその「證明」の紙片が沢村家に残されている。この沢村家は、田邊城に籠城し朝廷への連絡の功で有名な中村甚左衛門のご子孫である。沢山の史料が残されている沢村家では平成十七年、二冊(別編集では三冊)の本にこれらをまとめられた。その中に「證明」の紙片や「證明依頼」のものが十数点含まれており、大変貴重かつ興味深いものである。ご紹介するこの紙片は10×15㎝ほどのもの、で三つ折にしたような跡が残っている。清田石見が沢村権十郎に対して発したものである。

    今度嶋原尓て二月廿七日ニ阿部
    権兵衛本丸石垣ニ着石手
    負被申候證人ニ御立候様子具ニ
    御書出可給候以上
      六月五日    清田石見(ローマ字印)
         沢村権十郎殿へ


 「阿部一族」の主人公阿部弥一右衛門の長子・阿部権兵衛の働きに対する「證人依頼」である。(忠利殉死者慰霊の席で髻を切り、光尚の怒りを買い縛り首の刑を受けた)
原城落城の日から百日ほど経過しているが、二万人以上ともされる人たちの働きを確認する事は(高名に係わらず)至難のことであったろう事は想像するに難くない。

 沢村家に残る史料は次の如くである。
 
 1、沢村権十郎働きに対して 与頭・谷主膳宛 郡安左衛門書状
 1、稲津九郎兵衛働きについての証言について 稲津九郎兵衛・礼状
 1、杉山瀬兵衛働きに対しての証言依頼    小笠原備前書状
 1、矢野吉之丞    同上         長岡佐渡書状
 1、飯田安兵衛    同上         志水新之丞書状
 1、阿部権兵衛    同上         清田石見書状
 1、郡安左衛門    同上         長岡右馬助書状
 1、永良弥覚     同上         小笠原備前書状
 1、杉山瀬兵衛    同上         谷主膳書状
 1、稲津九郎兵衛   同上         長岡佐渡書状
 1、一緒に行動した状況の旨の報告      樹下山三郎書状
 1、沢村大学宛   同上内容報告        同上


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お久しぶりーネ

2009-09-12 13:36:09 | 熊本
 ほぼ一ヶ月ぶり(8月13日以来)に雨が降っています。今朝五時頃雨の音で目がさめ、少し開けていた窓からの風が気持ちよく、しばらく風に吹かれて又寝と相成りました。しばらくやんでいたのですが、午後になってから本降りと成りました。農家では野菜や、果物類に随分影響がでているらしいですが、まさに「干天の慈雨」と言った処でしょうか。熊本はいよいよ「随兵寒合(ずいびょうがんや)」となり、すっかり秋の様相へと変わっていきます。

 二時間ほどであがってしまいましたが、空気が洗われ私の部屋から見える西の空はきれいに広がっています。PM5:00追記
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする