三つ盛木瓜紋
「肥陽諸士鑑」を見ると、春木家の項には二つの家紋が紹介されている。
一つは「丸に金文字紋」だが、これは嫡家の当主が金大夫を名乗ることが多かったからではないかと思われる。今一つが、三つ盛木瓜紋で、細川家家中では大変めずらしい家紋なのでこちらをご紹介してみた。
熊本城の北側に連なる台地を京町台とよんでいるが、かっては侍屋敷が大路を挟んで並んでいた。その大路が国道三号線となり、熊本城の真下を通って(城内である)熊本市役所前に出ていた。現在では三号線は場所を変え大きく迂回している。東及び西側は10数メートル落ち込んで平地となっている。その京町台と東側の寺原・壷井地域は、現在ではその高低差を急勾配の長い坂で繋がれている。江戸期その途中にあった春木家が敷地を提供して道路をつくり、住民の通行の便を図った。急な坂道であるが現在も「春木坂」として親しまれている。
嫡家は家禄1,000石、番頭や御町奉行・寺社奉行等を勤めた(春木熊四郎家)。分家(春木七郎左衛門家)は「木瓜紋」を家紋としているところをみると、本来の家紋は「木瓜」であったと思われる。
「肥陽諸士鑑」を見ると、春木家の項には二つの家紋が紹介されている。
一つは「丸に金文字紋」だが、これは嫡家の当主が金大夫を名乗ることが多かったからではないかと思われる。今一つが、三つ盛木瓜紋で、細川家家中では大変めずらしい家紋なのでこちらをご紹介してみた。
熊本城の北側に連なる台地を京町台とよんでいるが、かっては侍屋敷が大路を挟んで並んでいた。その大路が国道三号線となり、熊本城の真下を通って(城内である)熊本市役所前に出ていた。現在では三号線は場所を変え大きく迂回している。東及び西側は10数メートル落ち込んで平地となっている。その京町台と東側の寺原・壷井地域は、現在ではその高低差を急勾配の長い坂で繋がれている。江戸期その途中にあった春木家が敷地を提供して道路をつくり、住民の通行の便を図った。急な坂道であるが現在も「春木坂」として親しまれている。
嫡家は家禄1,000石、番頭や御町奉行・寺社奉行等を勤めた(春木熊四郎家)。分家(春木七郎左衛門家)は「木瓜紋」を家紋としているところをみると、本来の家紋は「木瓜」であったと思われる。