津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・遠坂氏

2009-09-28 18:13:35 | 歴史
 一昨日のブログで書いた「春木氏」のことを色々調べている内に、春木七郎左衛門の二男が遠坂家に養子として入り、六代関内を名乗っていることが判った。遠坂家は「丹後以来」(青龍寺以来とも云う)の古い家柄で、初代助左衛門(関内・越後)は田辺城籠城衆として知られる。 
於豊前小倉御侍帳には「越後」と記され、馬廻組六番 千五百石とある。 
 
  ■初代 助左衛門(関内・越後)   
  丹波国物部之地侍にて、河北石見か甥なり、忠興君、荒木山城に被仰候ハ、若不慮之儀
  有之節、御見方をも仕、御用に立可申もの御隣国に有之候ハゝ、承立候へとの御事ニ付、
  丹波のはそうち村ニ、遠坂助右衛門と申す者、自然の御用にも立可申と申上候ゆへか、丹
  波御通之節、助右衛門宅江御立寄、自然之儀候ハゝ、御用をも御頼被成度旨にて、連々
  之御懇意有難く候間、心の及勤上可申旨、御役諾仕、夫より御出入仕候 田辺江人数押
  よする風聞承候間、則田辺へ申上候は、忠興君江御契約申上候筋御座候間、一門之者共
  并諸浪人内々手ニ付候もの数多居申候、後詰又は兵粮の御用等候ハゝ、御城に入可申哉
  と申上候、依之田辺への御使、森三左衛門を中宿させ、御城にも手引して入れ、又関東江
  差下候、此様子粗敵方へしれ、押寄るなといふ沙汰有しかハ、其内に関原落去、寄手退散
  し、事故なかりし也 (中略) 田辺の様子を助右衛門方より家来、上原長寿と申ものを以て、
  忠興君江御注進仕候、赤坂御陳所にて、書付差上候、長寿を御庭江被召出、様子御尋被
  成、今度助右衛門、御忠節之儀、御満足被成候、則御感状被下候間、慥二渡候様ニと被
  仰付候 (中略) 其後関ヶ原御合戦御勝利、幽斎君は亀山に御移被成候付、忠興君は直
  に福知山江御よせ被成候時、御立寄候へは、御膳を差上候、城攻にも、御人数ニ被加罷越
  候 豊前御拝領ニ付、助右衛門儀御知行千石にて可被召出旨、被仰出候、住所立去申儀
  迷惑ニ候段、御断申上候へとも、今度之御忠節被捨置かたく思食候間、先千石にて罷越可
  申由ニ付、豊前江相越、関内と名改申候其頃竜王の御城を妙庵主江御預被成候、御病気
  に御座候間、関内竜王江罷越、支配可仕旨ニ而、御加増五百石被下、名を越後と改可申旨、
  仰付られ、御持鑓拝領、自然の時に此鑓を枕にして、討死仕候得と、御意被成候、此鑓今
  に所持、竜王城御解被成候時、又小倉江罷越候 肥後にて御番頭、寛文十一年病死

  ■二代 関内      
     別禄二百石・父遺領千石拝領 島原一揆ニ而(原之城本丸・水の手口)討死
        供之者・御扈従与也「青龍寺」 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
        御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
        御詰衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
        御側者頭衆 歩御小姓頭 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
  ■三代 孫九郎・直房
     御児小姓被召出、無程御暇被下候(綿考輯録・巻五)
        十一歳跡式拝領(千石)、十四歳光尚君御前ニ而虚言--御暇被下候
        弟三五郎十歳ニ成候ヲ御召出・新知五百石拝領(四代)
     細川光尚殉死・千石被下置候処此節ハ浪人 廿二歳
        慶安三年四月二十七日 於・熊本泰陽寺にて切腹 介錯・大村猪右衛門

 四代目以降番頭、大奉行、中老等を輩出、家禄千石を変わることなく拝領し明治に至った。
家紋は「赤鳥」だと思われる。この紋は今川義元一族の家紋だとされるが、遠坂氏の出自は如何なるものか、未だ判明しないでいる。

ちなみに「赤鳥紋」は【実際は馬の毛を漉く「垢取り」のことで、「赤鳥」はその当て字である。】とされる。

             
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細川家家臣・陳氏

2009-09-28 08:31:40 | 歴史
                        丸に割菱紋(丸に武田菱紋)
 陳氏の読みは「陣氏」と記す文書が残されており、「じん氏」であることが判る。
陳氏といえば初代佐左衛門が挙げられるが、嶋原一揆の総大将・天草四郎の首を挙げた人である。綿考輯録はその様子を次のように記している。

陳佐左衛門走廻り首二ッ討取候か、四郎か居宅の焼落る比煙下をくゝり其屋の内にかけ入る、佐渡か軽卒三宅半右衛門もつゝいて入に、創を被りたる者かと見へ、絹引かつき臥居ける側に女壱人付添泣居たり、佐左衛門つと入足音に驚き、かつきたる絹を押除る所を透かさす一刀に斬て首提け走出る、女驚き引留んとするを、三宅是を切捨にして走出ると忽棟を焼落し候、寺本久太郎ハ先時夜明ると早速忠利君の御意を蒙り、今日討取所の首をも拾せ、本陳前の堀に集め候に夥しく有之候、佐左衛門も其所に至るへきと思ひ、右の首を提、忠利君の御目通り近くを行くを急き行を屹と御覧被成、其首見所有、大将四郎なるへし、念を入候へ、扨々冥加の者哉と御意候か、果して四郎首也、御近習の輩驚き奉感候、扨佐左衛門惣首の所に至始終を語候へハ、久太郎猶も委しく様子を尋ね聞、陳か高名を感し候

佐左衛門はこの時、相手が天草四郎であることを知らない。
2007-09-14のブログでは、幕府軍総大将・松平信綱の、総攻撃前日の「天草四郎生け捕り」を指示する文書が発見されたことを書いた。これは直接の指示書ではないが、細川忠利が「生け捕り」を提案した手紙に対する返書で、全軍に「生け捕り」を指示したい旨の同意を求めるものであるらしい。果たしてこれが全軍に通達されていたか、佐左衛門が手柄し、「有馬之役武功・陳中専一の勲功 四郎首討取、別ニ争無御座候 寛永五年五月五日於本丸被仰渡 新知千石御鉄炮廿挺頭--右大将四郎首討取功」(綿考輯録)という経過を見ると、これは間に合っていなかったと考えるのが妥当であろう。(間に合っていれば重大な軍令違反である)

いずれにしても、この一事で立身した佐左衛門は、まさに羨望の的であったろうし時代の寵児であったろう。
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