津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

花散里

2009-09-29 14:48:29 | 徒然
                      源氏香紋「花散里(はなちるさと)」

 細川家家臣では、森崎家がこの家紋を使われている。先のブログでご紹介した冨田家は、「隅入り角に花散里」紋である。私は香道については全く知らない。お香は「聞く」のだそうだが、五鉢を一回としてこれを聞き、同じ香りがしたものは縦棒の頭の部分を横線で繋ぐのだそうな。「花散里」は1番目と3番目、2番目と4番目(右から)が同じ香であったことを示している。香図というのだそうだが、これが源氏物語の帖に連動しているのである。なんと風雅な事か・・・

    源氏香紋 www.e-sozai.com/mon/zuhu/701.html
           www.e-sozai.com/mon/zuhu/701_2.html

    源氏物語「花散里}
           ja.wikipedia.org/wiki/花散里
           attic.neophilia.co.jp/aozora/genjimonogatari/htmlfiles/hanachiru.html

 「香道」も「源氏物語」も全く門外漢の私だが、この家紋のお陰でいささかの勉強をしたので、脳みその襞が一本くらい増えたかもしれない。
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細川家家臣・冨田(小左衛門)家

2009-09-29 11:30:08 | 歴史
 有吉興道・英貴の甥(姉の子)冨田小左衛門は、寛永十九年13歳で御児小姓召出され、新知三百石、慶安元年二百石加増(19歳)、光尚の死去(慶安二年)にあたり殉死した。当時は「御前を損シ外様に居りたり」状態であったが「御病中ニ御看病被仰付」られ、これを有り難く思っての殉死だとされる。兄・有吉雅楽も共に殉死を願い出たが、小左衛門のみのお許しと成った。妻が有ったがこれは加来佐左衛門に再嫁した。跡式は堀新五左衛門の二男藤松(殉死時生まれる)が4歳に成るのを待って行われた。有吉一門にたいしてのこまやかな配慮が窺える。

有吉立行---+--興道-------貞之・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉本家
        |
        +--英貴---+--英安・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉分家・英貴流
        |       |
        |       +==市郎兵衛(雅楽)・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉分家・市郎兵衛流
        |
        +---●
            ∥---------+--有吉助之進 有吉家士
     冨田与兵衛重冬     |
                    +--●(松野亀右衛門・嫁)
                    |                 二男
                    +--●(堀新五右衛門・嫁)---藤松
                    |                   ↓
                    +--戸田吉十郎 有吉家士
                    |
                    +--有吉雅楽 有吉英貴養子となる
                    | 光尚殉死           堀新五左衛門二男藤松
                    +--冨田小左衛門========小左衛門・・・・・→冨田家
                           ∥ 
                           ●
                           ↓ 再嫁
                       加来佐左衛門
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佐田家文書・抜粋 「日記及び紀行類」

2009-09-29 09:52:09 | 歴史
                         嘉永七年甲寅日記
                この日記の記録者・吉左衛門はこの年に亡くなった。

【佐田文書-5】 1799年  東行日記 寛政十一年    
 
【佐田文書-39】  1814年   鄙日記 文化甲戌年夏卯月         
1815年   御参勤陪駕途旅中日記 文化十二乙亥二月 
【佐田文書-16】  1817年   途旅中日記 文化丁丑秋七月  
【佐田文書-37】    同   宇佐紀行 文化十四年       
【佐田文書-53】    同   豊前紀行                
【佐田文書-21】  1823年   □禄日記 文政六年         
【佐田文書-41】  1830年   日簿 文政十三年庚寅正月  
       
【佐田文書-51】  1832年   日表 天保三年壬辰正月    
【佐田文書-22】  1834年   日載 天保五年            
【佐田文書-49】    同   日記 天保五年甲辰        
【佐田文書-30】  1835年  日記 天保六年           
【佐田文書-27】  1936年   日々禄 天保七年正月元日 佐田愛景(勝彦)/著
【佐田文書-48】    同   日記 天保七年丙申        
【佐田文書-52】  1838年  日記 天保九年戊戌          
【佐田文書-25】  1839年  日記 天保十年己亥         
【佐田文書-43】  1842年   天保十三年壬寅目録 玖瑰園   
【佐田文書-31】  1846年   日記 弘化三年丙午       
【佐田文書-50】  1847年   日記 弘化四年丁未 玖瑰園      
【佐田文書-42】  1848年  日記 弘化五年戊申 (嘉永元年)     
【佐田文書-45】  1849年  日記 嘉永二年己酉 壽永閣  
【佐田文書-47】  1850年   日記 嘉永三年庚戌 玖瑰園    
【佐田文書-44】  1851年   日記 嘉永四年辛亥 玖瑰園    
【佐田文書-46】  1853年  日記 嘉永六年癸丑 玖瑰園   
【佐田文書-4】  1854年  日記 嘉永7年甲寅  (安政元年)
      
【佐田文書-20】  1862年  東都白銀邸日記 文久二年正月  佐田淑景/著  
【佐田文書-102】 1864年  小倉大里滯陣中記 佐田彦之助 写    
【佐田文書-29】    同    豊前国小倉在陣中日記 元治元年十月一日   
【佐田文書-18】  1866年   日記 慶応二年丙寅 

    記録した人たち
7代・宇兵衛  
  佐田谷山 名は介景、字は子国、宇兵衛と称し、致仕して谷山と号せり。
  藩に仕へ小姓役を勤む。禄百五十石、程朱の学を好み、傍俳歌をよくす。
  春雛、箕足と号す。又音楽を能くし、曾て壽永筝を得て珍蔵し、孫宇平の
  時に献上して今は御物となれり。享和三年五月三日没す。享年七十五。
  墓は本妙寺中東光院。

8代・右十(造酒助) 百五十石
      享和二年十一月~文化二年二月 川尻町奉行
      文化二年二月~文化八年九月   中小姓頭
      文化八年九月~文化十四年十一月 小姓頭
      文化十四年十一月~文化十四年十二月(病死) 留守居番頭
  佐田右州 名は英景、右州と称し、造酒之助と改む。食禄二百五十石、小
  姓役、使番、中小姓頭小姓頭等を勤む。多芸多能のひとにして俳辭、散楽、
  蹴鞠、茗理、篆刻、種樹等皆能くせざるはなし、又頗る剣技に長ぜり。
  文化十四年十二月五日没す。享年五十九。

9代・右門(右平・吉左衛門) 右門-御目付 三百石
              右平-旧知二百五十石
              吉左衛門-旧知三百五十石
             
      天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
      天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
      天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名
  佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百
  五十石、奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を
  廃せず。安政元年八月弐拾日没す。享年七十四。
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