右一つ丁子紋
益田家の名を高らしめているのは、なんと言っても初代弥一右衛門の島原の乱における
一番乗りであろう。才助(弥一右衛門・正景)は「有馬之役武功・陳中専一の勲功」と称えられた。
有馬城本丸一番乗--城中ニて敵を鑓付高名仕候、并甥岡本伝十郎ニ火を懸せ
申候 本知百五拾石・千石加増御鉄炮廿挺頭・右本丸一番乗火之手を揚る功
寛永十五年五月五日於本丸被仰渡 (綿考輯録・巻四十九)
処が実は幻の一番乗りがあった。田中左兵衛氏久(養子 初・佐久間忠助 隠居後宗白)である
元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石
同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石
肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕
*原城にて武功の面々御褒美被下候 寛永十五年五月七日於御花畑--御陣刀
*原城にて武功の面々御褒美被下候(肥後様衆)寛永十五年九月朔日
黄金壱枚小袖二、羽織一
(綿考輯録・巻四十九)
*原城にて武功被賞 二千石
内本知百五十石なり、前ニ御褒美之所にも出、有馬之働為御褒美、二千石
二成 後又二千石御加増、二十七日之所二委出 (綿考輯録・巻五十)
(1)歩小姓 百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御六様衆 百五十石
(3)二千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(4)御留守居衆・与頭 四千百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
慶安元年十二月~延宝四年一月(隠居)城代
これは幕府上使が田中左兵衛の一番乗りを確認していなかったミスによるものである。
細川家としても報告が成されたらしいが、幕府上使の意見が通っての益田弥一右衛門の名誉が確定した。細川家は田中左兵衛の気持ちを慮って、上記のように光尚亡き後の綱利代に至るまで手厚い処遇でこれに対している。
さて益田家六代・同名弥一右衛門は藩主重賢に仕え、時の大奉行・堀平太左衛門と雄を争ったが安永年上書をあげた。堀平太左衛門の治政に対する意見書であるが「私より申上候儀一切誰にも御意不被成候様奉上候、洩候ては御為に相成不申儀と奉存候」と、いささか穏やかでない。この上書は当事者である堀平太左衛門に下附せられ、堀の回答を詳記して益田の元に返し、再度の弁明を求められた。しかしながら弥一右衛門は答えることをせず職を辞したとされる。「両雄並び立たず」である。
しかしながら、代々要職に在って明治に至るまで名誉の家名を存続した。
益田家の名を高らしめているのは、なんと言っても初代弥一右衛門の島原の乱における
一番乗りであろう。才助(弥一右衛門・正景)は「有馬之役武功・陳中専一の勲功」と称えられた。
有馬城本丸一番乗--城中ニて敵を鑓付高名仕候、并甥岡本伝十郎ニ火を懸せ
申候 本知百五拾石・千石加増御鉄炮廿挺頭・右本丸一番乗火之手を揚る功
寛永十五年五月五日於本丸被仰渡 (綿考輯録・巻四十九)
処が実は幻の一番乗りがあった。田中左兵衛氏久(養子 初・佐久間忠助 隠居後宗白)である
元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石
同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石
肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕
*原城にて武功の面々御褒美被下候 寛永十五年五月七日於御花畑--御陣刀
*原城にて武功の面々御褒美被下候(肥後様衆)寛永十五年九月朔日
黄金壱枚小袖二、羽織一
(綿考輯録・巻四十九)
*原城にて武功被賞 二千石
内本知百五十石なり、前ニ御褒美之所にも出、有馬之働為御褒美、二千石
二成 後又二千石御加増、二十七日之所二委出 (綿考輯録・巻五十)
(1)歩小姓 百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御六様衆 百五十石
(3)二千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(4)御留守居衆・与頭 四千百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
慶安元年十二月~延宝四年一月(隠居)城代
これは幕府上使が田中左兵衛の一番乗りを確認していなかったミスによるものである。
細川家としても報告が成されたらしいが、幕府上使の意見が通っての益田弥一右衛門の名誉が確定した。細川家は田中左兵衛の気持ちを慮って、上記のように光尚亡き後の綱利代に至るまで手厚い処遇でこれに対している。
さて益田家六代・同名弥一右衛門は藩主重賢に仕え、時の大奉行・堀平太左衛門と雄を争ったが安永年上書をあげた。堀平太左衛門の治政に対する意見書であるが「私より申上候儀一切誰にも御意不被成候様奉上候、洩候ては御為に相成不申儀と奉存候」と、いささか穏やかでない。この上書は当事者である堀平太左衛門に下附せられ、堀の回答を詳記して益田の元に返し、再度の弁明を求められた。しかしながら弥一右衛門は答えることをせず職を辞したとされる。「両雄並び立たず」である。
しかしながら、代々要職に在って明治に至るまで名誉の家名を存続した。