津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・上野氏(堅五)

2010-03-07 18:24:07 | 歴史
 細川家には数家の上野氏がある。ここでご紹介する上野氏は、家祖を尾形遠江としているので尾形氏からいろいろ調べてきた。それがうまく行かずよくよく侍帳を見ていたら、通字が「惟」であることにきずいた。「上野惟・」でぐぐってみたら見事にヒット、旧大友家家臣の上の氏であることが判明・・・これが今日一日の成果である。すっきりした~~~。
最後の当主は神風連の挙に参加した「上野堅五」である。


上野惟貞惟玄子佐伯惟直孫六郎
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惟房又太郎
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惟能
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惟親
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利貞文明頃加判衆
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鎮久左介天正頃 ・・・・・・? 尾形遠江 ?
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理右衛門・・・・・・・・・・・・ *上野理右衛門
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惟員次右衛門・・・・・・・・・・1、次右衛門・惟員
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十郎兵衛惟員子・・・・・・・・2、十郎兵衛
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惟是十郎兵衛子七兵衛惟重・・・・3、次右衛門・惟是(初・七兵衛惟重)
              
                4、四郎左衛門(養子 実・財満氏 初・半之允惟純)
                5、多傳  
                6、猪五郎
                7、屯(弥嘉良・弥佳良)
                8、十平(十郎)
                9、堅五(養子)  神風連の挙に参加・・自刃

        上野堅五  名は在方、通称堅五、比山と号す。少壮頴悟、長じて剛直文武を兼ね、
                特に騎射に長ず、林櫻園に古典を学び、又和歌を好くし書に巧みなり。
                最も敬神尊王の志厚く力を国事に盡す。明治九年敬神党の変党の長
                老として之に参與し、堅五徳学年歯と共に高く、一党の中に在つて斎
                藤求三郎と並び元老と仰がる、一挙の夜大田黒、加屋は堅五を首師と
                仰がんとせり、固辞して受けず、以て堅五の人物を知るべし。歩兵営襲
                撃の時遂に負傷して遂に自刃す。時に九年十月二十五日。
                墓は横手町安国寺。(現在移葬され、横手町宮之阪 紫雲山吉祥寺)

        
コメント
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