津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

麒麟と鳳凰はご縁戚

2010-03-03 19:33:04 | 歴史
 紀州の徳川治貞公、肥後の細川重賢公はこうして略系図二してみると意外と近い縁戚である事が分る。細川宗孝が殿中で切りつけられた折、相壻である伊達宗村公の適切な配慮が合った。治貞公は一時期西条藩の藩主であったが後実家に帰って9代目を継いだ。お二人が「紀州の麒麟」「肥後の鳳凰」と称された。

紀伊徳川家5代   6代         7代     8代    9代
 徳川吉宗===宗直---+---宗将---重倫===治貞
              |              ↑
              +---治貞・・・・・・・・・・・・
              |
              +---雲松院
              |   ∥
              | 伊達宗村
              |   
              +---友姫(静證院)
                   ∥
      細川宣紀---+---宗孝===重賢
              |         ↑
              +---重賢・・・・・・
         
         
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二つの明智系図

2010-03-03 09:34:56 | 歴史
 平成七年の「歴史街道」三月号に、歴史作家桜田晋也氏の論考「明智光秀・新史料の発見」が掲載された。「明智光秀公家譜覚書」というものが、熊本市の安国寺に所蔵されたいた事に関してである。氏も記されているが、発見された場所や由緒からして大きな意味がある。細川家が肥後入国に際し、豊前安国寺から連れてきたのがガラシャの末弟だとされる梵徹である。この梵徹が肥後安国寺の住持となった。細川家には明智氏の関係者として、光秀の女婿・光春(光秀従兄弟とも)の子・三宅藤兵衛の家がある。この三宅家から納められたものらしいが、三宅家は現在に至っても家訓にもとずき多くを語られない。

 今一つ喜多村家「清和源氏明智系図」というものが、熊本県立図書館所蔵「雑撰録」に所収されている。同系図によると喜多村氏は、光秀の六男七女の末子・内治麻呂のことである。母親が伊賀国柘植城主喜多村出羽守保光・女だとされる。そしてこの系図は光秀の子・洛陽妙心寺住職玄琳によってつくられたもので、喜多村弥平兵衛(内治麻呂)に宛てられている。そしてこれが明智光秀の姪の子だという明智助九郎家の後胤中瀬助之進の許にあって、これが書き残されていた。この中瀬家はさきにご紹介したが木下藤吉郎の旧主・松下嘉兵衛之綱の後胤でもある。源太左衛門は幼い頃「秀林院(ガラシャ)様御側に御養育」されたという。忠利が愛宕山福寿院に入院した時、源太左衛門もお供したと先祖附は記している。 
 
松下嘉兵衛之綱---+--     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本・松下家
             |                初代・母方姓に改
             +---外記---源太左衛門---中瀬助九郎・・・・・・・・・・・→細川家家臣・中瀬家
             改姓        ∥
    明智助九郎---中瀬助三郎---●


 安国寺に残る三宅氏系明智系図は見ることができないが、桜田晋也氏の論考の範囲内で検証しても、喜多村氏系明智系図は似ても似つかないものである。光秀の女婿である筒井順慶が光秀の実弟とされていたりして、首を傾げざるを得ない。当然のことながら安国寺の梵徹も登場しない。三宅氏・中瀬氏の交流も有ったろうと思われるが、夫々の系図は趣を異にしている、すべては闇の中である。安国寺の「明智光秀公家譜覚書」を是非とも拝見してみたいものだ。
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