津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川藤孝譜 ・・ 12

2010-03-18 18:29:38 | 細川家譜

同月ヨリ十月ニ至リ丹後ノ國士属セラルヲ藤孝忠興ト共ニ之ヲ攻ム 相従フ宗徒ニハ飯河山城守
信堅・荒川勝兵衛輝宗・沼田勘解由左衛門清延・長岡平六好重・頓五郎興元・松井康之・有吉立
行・米田是政・志水清久・同悪兵衛秀清・藤木又左衛門成定等以下三千餘人ナリ 光秀ヨリ加勢
トシテ人數三百餘ニテ馳加ル 然ニ弓ノ木城ニハ一色五郎田邊城ニハ矢野但馬・同藤一郎由良
城ニハ大嶋對馬守・中山杢之助落合城ニハ落合孫四郎・同嘉門瀧山城ニハ瀧山主計・同安左衛
門峯山城ニハ吉原又左衛門・同左馬入道西雲八禰城ニハ一色式部熊野城ニハ櫻井豊前守・小
山隼人久美城ニハ一色宮内少輔・清水次左衛門竹野城ニハ波多野清右衛門・一色又左衛門其
外中津海左京・坂井造酒助・澤彦兵衛等一色ニ属シ城ヲ守ル 依之藤孝先ツ弓ノ木城ヲ廿日餘リ
攻ルニ堅固守テ落サル故數多ノ人數ヲ討センモ益ナシト思ヒ櫻井豊前守ニ使ヲ遣ハシテ云ヤウ一
色ノ家運モ最早末ニ及ヒ此城強ク支ヘラルゝ事モ久シカラシ我又一色家ニ遺恨ナシ願クハ無事ヲ
ハカラフヘシトアリケレハ豊前守等會合シテ申ケルハ藤孝忠興ノ仁勇ニ敵シカタク幸ニ彼方ヨリ扱
ヲ入ルゝ事面目ナリ速ニ和議然ルヘシト一決シ一色五郎降参シ大嶋對馬守・櫻井豊前守・矢野藤
一郎等降参シテ人質ヲ出ス 其餘ノ城々従ハサルハ攻落ス 奥山城ニ矢野志摩守楯籠リ嶮岨ニ
サゝへ防ケ共藤孝カ家士上羽丹波光秀カ家士妻木主計先ニ進テ乗入敵數多討取ルユヘ志摩守モ
軍門ニ降ル 佐野城ハ佐野備前・同源五郎郷民ヲ駈リ集メ楯籠ルヲ進ンテ烈敷鉄炮ウタセ人數ヲ
分チ上ノ山へ廻シ城中ヲ目下ニ見下シ大手搦手三方ヨリ同時ニ乗破ル 佐野源五郎ハ逃行ケリ 
藤孝下知シテ云フ一揆タリ共猥ニ誅スヘカラス降ルモノハ助命シテ案堵サスへシト 依之大久保
城主小倉播磨守・栗田城主川嶋備前・府中城主延長修理・須津村城主大内宮内左衛門・亀山城
主石川浄春齋・賞幾院城主公荘但馬守・下村城主上原徳壽軒・宮津城主小倉玄蕃允・總村城主
北荘鬚九郎・間入村荒川武蔵・嶋邑ノ石河尾張村田越前・下岡城主高屋駿河入道良閑同十郎兵
衛・徳光村城主後藤悪助以下七十餘人砦ヲ出テ降参ス 尤此内他國へ立退モアリ成願寺村ニ星
野因幡江波和泉黒部村城主松田遠江等ハ強ク働テ戦死ス 與佐郡日置ヨリ北ノ方本荘菅野浦入
等ハ宇川郡城主山内道倫ヲ大将トシテ本荘菅野両城ニ楯籠ル ■嶋城ニハ嶋田藤兵衛能室城ニ
ハ太田右京土井小十郎平村城ニハ小倉備前守吉永城ニハ矢野兵衛佐後藤金蔵岩永城ニハ井上
卒度右衛門岡城ニハ小瀬因幡日置村聟山城ニハ日置弾正松井金山茂呂菊井大嶋城ニハ千賀兵
大夫中村城ニハ大森總右衛門大村長門一分村城ニハ氏家大和中山城ニハ貫幸兵衛志高城ニハ
長江小太夫女布城ニハ森脇宗波福井城ニハ福井藤吉郎楯籠ル 藤孝光秀ノ軍勢押寄々々攻ケ
ルニ難計降ヲ乞ヒ城ヲ渡ス 國中残ナク攻伏セリ 丹後ハ一色・山名・波多野ノ勇士多キ故稠敷防
戦ニ及タルモ有レ共藤孝軍慮ヲメクラシ恩恵ヲ施シ忠興ヲ初メ松井・有吉・米田以下ノ家士各粉骨
ヲ尽シ且諸勢正クシテ民ノ煩ヒナク悉ク藤孝ノ手ニ属ス 丹後打入ノうち雲林院式部大輔ヲ大将ト
シテ宇津大和守・釋加牟尼佛靭負・和田加兵衛三千程ニテ丹波國鬼ケ嶽城ニ立籠ヲ光秀之ヲ攻
ム 忠興聞テ九月十八日近習計ニテ發向ス 藤孝ヨリ松井康之ヲ差添ル 光秀歓テ追手ノ方へ備
ヘラルヘキトソノ事ナリシニ古田左助之ヲ用ヒス山ノ手然ルヘキトテ間道ヨリ城ニ乗入テ鬨ヲ發シ左
助先ニ進テ敵ヲ討取忠興モ敵ヲ突伏首ヲ取ル 是ヲ見テ總軍一同ニ攻懸リ城兵宗徒ヲ初メ二百餘
人討取ル 城主式部等残黨ト共ニ逃散ル 是ニ聞キ■チシテ久下・澤田・綾部城モ明渡スユヘ光
秀ノ人數ヲ入置ク 忠興ハ康之ヲ残置キ又丹後ニ歸リテ堀久太郎ヘ書状ヲ以テ注進シケレハ十月
二日信長ヨリ自筆ノ感状ヲ給ル 其後藤孝忠興共ニ安土二参観ス 十一月伊丹城落去村重ハ竊
二高野山ニ忍入ル
八年庚辰三月十八日藤孝従四位下ニ叙セラレ侍従ニ任セラル
六月惟任光秀派赤井悪右衛門同五郎左衛門兄弟カ籠ル穂壷高見ノ両城ヲ攻落シ丹波悉ク平均ス
此鬨藤孝ヨリモ加勢ス
七月藤孝ト光秀ヲ安土へ招カレ両人丹後丹波ヲ治ルノ次第其功ノ速ナル事ヲ感賞アツテ丹後ハ藤
孝丹波ハ光秀ニ賜ハル 両人太刀馬品々捧物シテ拝謝ス 此時光秀ヘ信長申サレケルハ兵部大
輔ニ天守ヲ見セン案内者ニ参ルへシト有テ同道ス 忠興ハ右拝禮トシテ出ケルカ信長ヨリ嫡子與一
郎モ天守ヲ見ルヘシトノ事ニテ従ヒケルニ信長丹後國ハ親ニハ遣ハサス汝ニヤルト申サレケレハ忠
興拝謝シ落涙ノ躰ヲ一覧セラレテ忠興額ヲ押動カサレ倅メカホエヲルハマコトニ恩ヲ忘ルマシキモノ
ト申サレケル
八月二日藤孝忠興青龍寺ヨリ丹後へ入國ス 青龍寺ニハ松井康之ヲ残置キ右拝禮トシテ安土へ
使者ヲ差越シ先八幡山城ニ入テ宮津城ヲ普請シ居城イタシ度旨信長へ伺ヒケレハ光秀ト談合アリ
テ丈夫ニ申付ヘシトノ答書来ル 此城日夜ヲ継テ成就シ後二藤孝居城トス サテ丹後國人みな八
幡山城ニ来リ拝禮ノ儀ヲ述ル二吉原兵庫入道西雲異心ヲ抱キ己カ館ニ楯籠ル 藤孝押寄光秀モ
加勢シテ悉ク討取リ其旨信長へ注進スルニ尚萬事油断ナク調議専一ニスヘキトノ答書来ル 又高
屋十郎兵衛好清力量アルモノニテ従ハス是ヲモ攻伐有ルヘキ處噯ヲ入レ冬二至テ漸ク降参シ鳥
目百疋ヲ捧ケ拝禮ヲ述ル 折節雪中ニテ忠興履ヲ着テ厩ノ前ニ立テ在リシニ助右衛門是政高屋ヲ
倶シテ来ル 助右衛門奏者ニテ拝禮スル時忠興捻向キ首キレメトテ手打二ス 助右衛門ハ左ノ手
二鳥目ヲ持ナカラ抜打二二ノ目ヲ切ケルニ忠興刀ノム子ニ切込ケルヲ殊ノ外早カリシト感賞セリ
高屋カ従士五六人有シヲ助右衛門以下中ニトリ込テ一人モ残ラス切殺ス 高屋ハ國中ニ威名アル
者ナリシカ此節忠興ノ勇敢ヲ傳聞シ恐レテ背ク者ナカリシトナリ 總テ丹後ハ數年一揆ノ争國ト成テ
人民困窮ニ及ヒシニ藤孝早速國中ヲ巡見シ是非ヲ決断シ憐愍ヲ加ヘケルニヨリ忽チ國中平均シテ
皆其徳ヲ仰キケルヨシ








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水指しの使い道

2010-03-18 14:16:40 | 徒然
 二十年程前に韓国を旅したことがある。私は特段骨董趣味は無いのだが、ある店で青磁の水指を見つけ釘付けになってしまった。ちょっと高かったが「百間石垣後とび」で購入してしまった。お茶会デビューする事もなく、飾り棚に飾って二十数年である。
私は今ひそかにその使い道を考えている。

 渥美清(俳名・風天)の俳句についての森英介氏の著「風天・渥美清のうた」に、小沢昭一の話がある。「小沢昭一的こころの追悼エッセイ」という項があり、次のような文があった。

    若き日、彼が結婚したとき、私は心ばかりのお祝いに長崎三彩の壷を送りました。
   実はそれは新式の骨壷で、私はシャレに、というか半分ふざけて献上したのですが、
   彼はキャンディなど入れて使ってくれて、彼がなくなってから、夫人がやはり骨壷と
   して使ってくれたということを、最近、夫人にお目にかかつて伺いました。恐縮する
   と同時に、ありがたいことと手を合わせた次第です。

 いい話しではないか。それも三彩の壷とは賑やかでいい。彼は亡くなる五年前に肺がんの宣言を受けていたというから、死の覚悟が出来ていたのかもしれない。彼の意思なのかご夫人のお考えなのか分からないが・・いい話しではないか。

 水上勉先生のエッセイ「骨壷の話」もなかなか面白い。表紙の絵の蟹の取っ手がついた壷などもなかなかおつなものではないか。先生の手でいくつもの作品が生まれているらしいが、凄い値段がつくものがあるらしい。

 母が亡くなった折、気が動転して骨壷のことなど気が廻らぬままでいたら、気が付いたらお骨は既製品(?)のありふれた壷に納められていた。しまったと思ったときはあとの祭りである。
今は冗談での話だが、「俺が死んだらあの青磁の壷に収めてくれ」と云っている。妻は「あなたは骨太だから納まらない」などと不遜なことを言う。なにも全部納める事は無い、入るだけにしておけばよい話である。近々息子達にも耳に入れておかねばと思っている。

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