天正十三年乙酉三月秀吉紀州根来寺ヲ攻ム 僧徒且土寇ノ族處々二要害ヲ構へケレハ大納言
秀長・中納言秀次等ヲ先トシテ千石堀ニ向ヒ忠興・蒲生氏郷ハ積善寺ヲ攻ム 忠興カ攻口城兵頻
リニ鉄炮ヲ放チ進退自由ナラスシテ手負討死アリ 城兵大勢突テ出ルヲ有吉立行・米田是政等槍
ヲ以テ接戦シ城中ニ退却ス 各進テ斬首數級ヲ得タリ 蒲生ノ兵士モ劣ラス力戦シ両軍齊シク攻
付レハ程ナク城陥リ千石堀濱ノ城モ又降ル 廿日秀吉親(ママ)ヲ将トシテ根来寺ヲ攻メ是ヲ焼ク遂ニ
雑賀ノ土寇ヲ攻ム賊徒三千餘太田城ニ據リ要害堅固ナル故廿三四日ヨリ手々ニ堤ヲ築キ吉野川ヲ
決リ城ニ灌キ之ヲ攻抜キ渠魁百五十餘人ヲ誅ス 此段忠興勤労アリ
七月初旬ヨリ秀吉北國役ノ催アリ先是佐々成政信雄ニ與シ一旦前田氏ト挑ミ戦シ二信雄秀吉ト和
睦ノ後力ヲ失ヒ居城越中富山ニ楯籠ル 此時忠興ハ在國シケル處舩手ノ備ヲ命セラレ依之興元井
松井康之・有吉立行ヲ舩手ノ将トシテ加賀國宮腰マテ着舩スヘキ旨申付ケ忠興ハ米田是政等ヲ率
テ陸地ヨリ進ミ秀吉ニ随テ宮腰ニ至ル 興元等ハ舩ヨリ越前ニ廻リ處々放火シ苦戦シテ多ク首級
ヲ獲タリ
秀吉甚感賞シ此度ノ軍功抜群ノ旨口陳アリ サテ總軍冨山城ニ押寄大ニ鬨ヲ揚ケテ勢ヒ甚シカリ
ケレハ城兵漸々ニ逃散シ成政勢力屈シテ冨田平左衛門・津田四郎左衛門ヲ憑ミ降ヲ乞フ 廿九日
剃髪染衣ニテ秀吉ノ本陳呉服山ニ伺候ス 忠興・氏郷應接シテ秀吉殊ニ懇篤ノ命アリ
天正十四年丙戌関白秀吉藤原姓ヲ豊臣ト改ラレ忠興へ豊臣ノ姓ヲ與ヘラル 忠隆忠興嫡男并松井
康之ニモ豊臣ノ姓ヲ賜ル
十五年丁亥三月朔日秀吉島津氏ヲ攻ントテ京ヲ進發忠興モ先鋒ニテ出陳ス 是ヨリ先キ九州久シ
ク闘亂島津義久・大友義鎮弓箭ヲ取リ驕リテ自餘ノ輩両家ノ旗下ニ属シ亂撃止事ナシ 然ルニ大
友巴先達テ秀吉ニ従ケル故援兵トシテ毛利・小早川・黒田・仙石・長曽我部等ノ數氏差遣ハサル
然レ共猶是ヲ諭シ鎮ムヘシトテ義久ニ書ヲ給ハリ又幽齋ハ義久兼テ和歌ヲ好ミ家臣伊集院右衛
門大夫モ同ク門下ニ属シ連々好ミ有ルニヨツテ秀吉ノ命ニ任セ千利休ト倶ニ和議ノ事ヲ取扱ヒケレ
共義久承引ナキユヘ今度大軍ヲ催サレシナリ 先陳ハ前年ノ冬ヨリ二月マテニ追々出兵ス 秀次
以下ノ諸将ハ豊後ニ打向ヒ秀吉ハ肥後口ヨリ攻入ルヘシトテ忠興モ三千餘人ニテ先鋒シ豊前ニ
渡海ス サテ岩石城ニ熊井越中守數百騎ニテタテ籠リ秋月種實入道宗全ニ應援スルヲ攻ムヘキカ
ト秀吉へ亶議シケレハ別砦ノ事先ツ構ハサル様ニトノ下知ナル故秋月ノ居城筑前ノ小熊ヲ攻ントス
然ルニ秀吉廿八日長州赤間関ヨリ小倉ニ渡リ廿九日同國馬嶽ニ着陳四月朔日其邊杉原山ニ陳替
ノ處彼岩石城眼下ニ見へケレハ一時攻ニシテ敵ノ目ヲ驚カサントテ少将秀勝ヲ将トシテ忠興・蒲正
・前田・日野等ノ數氏ニ先駈ヲ命セラレ三萬餘兵にて攻懸ル 城中堅ク防キ味方死傷スル者甚多シ
秀吉使節ヲ以テ一挙ニ抜クヘキ旨屢下知アリ 依テ死傷ヲモ厭ハス諸将齊シク進テ三方ヲ圍ミ故ラ
ニ山ノ手ヲ開キ置キ火ヲ縦テ攻懸ケルニ敵城門ヲ開キ牛馬三百餘繋キ合セ其尾に炬火ヲ結ヒ付テ
追出ス 城主熊井久重鋭兵ヲ勝リテ討テ出ケレハ寄手驚テ擾亂シケル所ニ松井康之先ニ進テ衆ヲ
勵マシ忠興ノ昇少モ動カス物頭等下知ヲ加ヘ筒先ヲ揃テ牛馬ヲ打伏ケル故後ニ續ク敵兵猶豫スル
處ヲ並進ンテ奮撃シ首五六十級ヲ獲テ残兵ヲ城ニ追込シカハ秀吉ヨリ牧村利宣ヲ使ニテ今ニ始メヌ
長岡ノ筋違昇松井新助哉ト賞美セラル 蒲生・前田ノ軍士等我先ニト競ヒ進テ城ニ乗入ル 當手ニ
テハ有吉太郎助本丸ニ先登シ火ヲ放テ焼立城主熊井ヲ初メ之ヲ鏖シ二ス 秋月宗全・同三郎種永
之ヲ聞テ大ニ驚キ氣ヲ奪ハレ降伏シテ城ヲ渡ス サテ秀次以下諸将モ豊後ヨリ日向國ヘ亂入ノ旨
追々報告有ケレハ秀吉大ニ悦ヒ三日秋月カ城ニ陳ヲ移サレ此間ノ概略禁裡ヘ奏セラル 夫ヨリ筑
後ヲ経テ肥後ニ打入隈本八代等逗留ノ内九州ノ諸将追々ニ降伏シケレハ皆本領安堵ヲ命セラル
島津ハ漸々ニ與力ヲ失火本國ニ據テ堅ク守ル 秀吉降将ヲ以テ薩州討伐ノ先鋒に■ツ忠興ト蒲生
ハ島津ノ家老新納武蔵守カ居城大口ヲ攻ム、此城堅固ノ要害ニテ容易ニ攻抜カタク殊ニ上方ノ大
軍粮乏ク二三日諸軍飢二及ヒ忠興モ食ヲ絶事一日一夜ナリ 此時新納ヨリ粮米ヲ下人に齎ラセ小
苗代ノ河越ヨリ矢口止サセ使者一人差添忠興ニ贈ラシメテ申ケルハ昇筋違ニテ幽齋君ノ令嗣タル
事ヲ知ル 軍事ハ兵粮ヲ先二ス今諸軍粮竭キ士飢ト傳聞セリ幽齋君ハ寡君と舊識ナリ故ヲ以テ之
ヲ贈ト 忠興ハ床几二カゝリ居ケル處件ノ趣申述ケレハ恵情ニ於ハ感悦浅カラス然共兵粮ハ潤澤
ナル故返却スト答ヘタリ 島津ハ累代ノ國王ニテ下民モ其恩ヲ慕ヒ諸士志ヲ一ニシ殊ニ嶮岨ニ據テ
防ケレハ容易ニ攻入カタク見ヘケル處秀吉遠謀ヲ廻ラシ本願寺顕如ヲ先鋒ニ加ヘケル故國民顕如
ヲ拝シ防戦ヲナサス 依之思ヒノ外ニ難所ヲ越五月四日秀吉薩摩ノ内太平寺ニ本陳ヲ居ラレ川内河
ニ舟橋ヲ懸サセ往還ノ便ヲナシ先鋒十萬餘鹿児島ニ迫ツテ陳ヲ取ル 殊ニ兵粮舩數千艘着岸セシ
カハ諸軍ニ領チ與へ兵氣益壮ナル故島津家防術盡テ赦宥ノ事ヲ乞フ 秀吉許容アリ七日島津氏太
平寺ニ来テ禮謝シケル處本領ヲ賜ハルヘキトノ儀ニテ義弘昌之等ヲ初メ家老ノ面々秀吉ニ拝謁シ上
下安堵ノ思ヒヲシケルトナリ 日向大隈ノ内一揆處々ニアルヨシ聞へケレハ忠興等ノ諸将五萬餘ノ兵
ニテ廿日二手ニ分レ押向フ 先ツ野村兵部丞カ守ル山崎城ニ向ヒシ二降ヲ乞テ城ヲ渡ス 其外所々
ノ餘黨悉ク攻平ケ五六日ノ内日向平定シケル故秀吉諸将ノ功労ヲ賞セラレ肥後八代マテ還座隈本
南関筑後ヲ経テ七月関ノ戸ヨリ歸陳セラレ忠興モ歸陳ス
終日孫を預かりうろうろしました。楽しいのですがやはり疲れてしまいました。
・東京の山田様から「白菊と柴舟について」という、「お香」に係わるレポートをメール
で頂戴しました。皆様にご紹介すべくご了解を戴いた所ですが、編集に至っておりません。
明日にはUPしたいと思います。
・「細川家譜--細川忠興譜」は数行しかタイピングが出来ておりません。
本日はお休みということでご了解下さい。
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