津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

保田窪という町

2010-03-06 15:28:28 | 歴史
 昨晩は松本寿三郎先生の「近世の領主支配と村落」を読んだ。「八ヶ所地筒と御家中地筒」という章があり、私の住まいに程近いところにある保田窪という地区が、その「地筒」衆が住んでいた地区であることを知った。保田窪本町と保田窪1~5丁目があるのだが、保田窪本町は大きなつくりの農家であっただろうと思わせるお宅が多い。「丁目」がつく町並みは明らかに新興地であることが分る。先の松本先生の論考の中に、「保田久保(ママ)ノ儀ハ阿部弥一右衛門(忠利に殉死)殿手ニテ寛永十二年ヨリ追々ニ御仕立ニ相成候事」とあった。あの「阿部一族」の弥一右衛門(御国廻りの奉行)が、肥後入国後寛永12年~15年に掛けて設置したとされる。そして保田窪鉄炮地筒は45人いた事が記されている。鉄炮小頭に荒尾長左衛門という人が有り、加藤清正の旧臣であったらしい。

 荒尾という姓と、保田窪の地名でぴんと来るものがあった。神風連の挙に保田窪の郷士が数多く参加している。その中に荒尾兄弟がいた事を覚えていた。一時期神風連については資料をむさぼり読んだことがある。志士のご子孫五家とご厚誼をいただいている。石原醜男の「神風連血涙史」を引っ張り出して読み返しているが、又瞼をあつくさせる。
保田窪からは荒尾保夫・楯直兄弟をはじめ、加来十郎・安藤善蔵・千田昌雄・立川運・春日末彦等12人が加わり、夫々が場所を異にして死んでいった。

 電話帳をめくってみると、熊本市に20軒ばかりの「荒尾姓」のお宅があるが、なんと保田窪本町に2軒の荒尾さんがあった。ご縁戚であろうか。いまでは熊本市中心部から東部へ結ぶ大きな道沿い(国体道路)が貫通しているが、その道路沿いにひっそりと保田窪天満宮が鎮座している。西南の役では協同隊発進の場所となった。気概にもえる郷士(地筒)たちが生きた歴史の町である。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする