津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家譜--細川藤孝譜 ・・ 11

2010-03-17 08:56:20 | 細川家譜

(天正)六年戊寅正月元旦信長安土城ニオイテ五畿内若江勢尾張ヨリ安土ニ在留ノ面々へ茶ノ
饗應アルヘシト兼テ命アリ依之信忠以下十二人藤孝モ其内ナリ 孰(イズレ)モ寅ノ刻ヨリ登城ス
信長出迎ヒ自ラ配膳ニテ茶ヲ饗シ畢リテ三獻ノ土器ヲ出サル 又大小名ニ安土ノ天守ヲ見セ和
漢ノ珎器數ヲ盡シ並へ置キ上ノ段ニハ金銀ヲ横置キ雑■(者ノシタニ火)并南蠻ト明ノ珍奇ノ菓子色
々ヲ給ハル 信長ノ曰各數年戦功ヲ盡サレテ此山城就セリ珎重餘リアリトナリ

三月惟任光秀丹波ニ攻入ル 信長モ両丹ノ一揆退治ノ催ニテ奥郡千喜郡へ二筋モ三筋モ人馬
ノ往還障リ無キ様ニ道作リ立ヘシ重テ撿使ヲモ遣ハスへキト藤孝ニ申越サル 依之道橋ノ事沙
汰セラレシニ又様子カハリ信長出馬ナリ 藤孝并惟住・瀧川ノ三将丹波二打入光秀ニ加勢有ル
ヘキヨシ命アルニ因テ出張ノ處一揆打向ヒ支へシヲ十四日夜討ニシテ悉ク討取ル波多野右衛門
大夫秀治は兼テ信長ヲ欺キ偽テ降参シ八上城安堵ノ宥恕ヲモアリタル故旁油断セシ處二右四
大将押寄スル 秀治周章テ是ヲ防キ舎弟波多野遠江守秀尚・二街堂伊豆守秀香二千餘人ニテ
討テ出寄手二散々二射立ル 光秀評議シ此城要害ヨシ輙ク攻落シ難シ食攻二スヘシトテ惟任
家ノ兵二八上城ヲ攻圍マセ通路ヲ絶チ光秀・藤孝歸陳セリ

四月藤孝・光秀ト共ニ丹後國ニ攻入ル 一色義有ノ郎従所々ニ要害ヲ構へ一揆ヲ語ラヒテ是ヲ
防ク 両手ノ勢柵逆茂木ヲ引除ル 藤孝手ニテは松井・有吉・米田・志水等先ニ進ミ砦ヲ攻破敵
アマタ討取ル 義有モ六百餘ニテ出張シ戦へ共利ヲ失ヒ宗徒二百餘人討レ義有は僅カ五十餘
騎ニテ圍ヲ切抜ケ弓ノ木城ニ引入ル 然ル處別所小三郎長治播州三木ノ城ニ在テ信長ニ叛キ
羽柴筑前守ト戦フ 是ニヨツテ藤孝・光秀モ播州へ加勢有ルヘキト信長ヨリ申越ルゝノ間丹後ノ
戦ヲ止メテ五月三日播州へ出張ス 城之介信忠ヲ初メトシテ諸将秀吉ニ助勢アリ 長治ハ毛利家
ニ援兵ヲ乞フ 毛利ヨリ吉川・小早川・浮田等三萬餘兵ヲ以テ是ヲ助ク 秀吉ノ計ラヒニテ左用上
月ニ尼子孫四郎勝久・弟助四郎通久・山中鹿之助幸盛ヲ将トシテ三千餘ノ兵ヲ籠置ク處ニ吉川・
小早川上月ノ城ニ押寄セ攻圍ム 味方ノ諸将谷ヲ隔テ五月末ヨリ對陳アリ
十日羽柴秀吉上洛シテ信長ノ下知ヲ承リ諸軍上月表ヲ引拂ヒ書冩山マテ打入ル 翌十七日神
吉民部大輔カ籠ル神吉ノ城ニ向ヒ町屋ヲ打破リ裸城ニナシ井樓ヲ揚ケ竹把ヲ連子大筒石火矢ヲ
發チ遠攻ニス 藤孝・忠興モ先手ニ進ミ所々放火シ仕寄ヲ附ル

七月初旬城兵打テ出荒木・瀧川カ陳ニ切テ懸ル 両家ノ士卒稠敷戦ヒ信雄藤孝ハ仕方城ノ東ノ
山ツゝキニ備ヘシ故勢ヲ分テ之ヲ助ケ各カ戦シ藤孝手ニ敵首百餘討取ル 十五日ノ夜ヨリ十六日
ニ至リ藤孝并瀧川・荒木・惟任・惟住ノ數氏稠敷攻付シカハ遂ニ城中ヨリ降ヲ乞フ 惟任ノ謀ニテ
無事ヲ調ヘ神吉民部大輔ヲ呼出シ佐久間カ家人両人ニテ討取リ天守ニ火ヲカケ悉ク焼拂ヒ西丸
持口神吉藤太夫は一命ヲ助ケ志方ノ城へ送リ續テ志方ノ城ニ攻寄セケル處勢ヒ盡キ城主櫛橋
左京進治家降参シテ城ヲ渡ス 信忠神吉志方ノ両城ヲ秀吉ニ渡サル 其隙ニ吉川・小早川等上
月城ヲ攻取ル 尼子ハ自害シ山中ハ殺サル 秀吉ハ三木ノ城ヲ圍ムト雖共防禦宜ク殊ニ堅固ノ
名城ユヘ輙ク陥レ難ク遠攻ニシ信忠モ三木城ノ附城堅固ニ構へ秀吉ニ引渡シ八月十六日岐阜
へ歸城アリ 藤孝忠興モ歸城ス

九月織田七兵衛・瀧川左近将監・惟任日向守・藤孝父子丹波へ出陳小山城主長澤治部大輔義
遠ヲ攻ム 城兵稠敷防クト雖共味方荒手ヲ入替々々攻破リ城主義遠自害シ光秀城ヲ放火ス 藤
孝光秀カ人數ハ猶大館左近将監カ籠ル高山城ヲ攻圍ム 敵夜ニ入リ城ヲ開テ退クヲ藤孝カ軍士
追討ニスカクテ所々落去セシヲ聞テ大槻ノ一揆モ要害ヲ捨テ逃去ル 馬掘ノ城モ同両手二テ攻
ケルニ一揆後ノ山ヨリ逃出ルヲ雅楽助追付テ討取ル 藤孝父子ハ丹後ニ討入一揆ヲ攻ケル處ニ
播磨國浮田直家出張スルヨシ聞へケレハ直ニ播磨へ出張ス 荒木村重モ打向ヒ共ニ浮田カ砦ノ
要害ヲ攻取リ諏訪飛騨守ヲ入置キ荒木は攝州ニ歸リ藤孝ハ再ヒ丹後へ討入ル

【荒木村重、信長に叛く】
十月藤孝信長ノ命ニ依テ攝州ニ至リ本願寺ノ一揆ヲ抑ヘ附城ヲカマヘケル處ニ荒木村重信長ニ
叛ヒテ伊丹城 有岡城トモ云フ ニ籠リ本願寺ノ一揆ト牒シ合スルヨシ聞ヘケルハ松井康之密ニコレ
ヲ信長ニ告ク 信長松井ヲ召直談アリテ光秀及ヒ宮内卿法印・萬見仙千代ヲ使トシ村重ヲ宥メラ
ル 藤孝ヘモ書状ヲ給ハル 藤孝ハ常ニ村重ト睦シケレハ光秀等ト相談シテ色々異見ヲ加ヘケ
ルニ村重ハ信服ストイへ共一族郎従等同意セス三使モ力ナク安土ニ歸ル 十一月三日信長荒
木退治トシテ上洛セラレ九日攝州へ進發シ攻手ノ手配アリ 藤孝父子并惟任・惟住・羽柴ノ三氏
蜂屋氏家・安藤・因幡・武藤宗右衛門等ニ命セラレテ大田ノ郷北ノ山ニ砦ヲ作ラシム 出来ノ上
越前手ニ相渡シ諸将ハ十四日伊丹表へ攻入リ所々ヲ焼拂フ 城中ヨリ足軽ヲ出シケルヲ追討ニ
シテ伊丹へ押ツメ刀穪山ニ陳ヲ居ユル 信長モ馬ヲ寄セラルゝ處ニ荒木方ヨリ味方スル者多ク段
々總勢附ヨセテ十二月八日取アヒ有リ味方利アラス萬見山仙千代討死ス 其後附城數多拵へ
諸将ヲ入置キ信長父子ハ歸陳セラル 藤孝父子ハ盬川伯耆等ト共ニ池田ノ附城ニ滞陳ス 其比
屏島ニ砦ヲ構へ松井康之ヲ置テ本願寺ノ一揆ヲ抑ヘシム 一揆大勢ニテ屏嶋ノ砦ヲ圍ム 松井
下知シテ鉄炮ヲ強ク打セ色メク處ヲ城ヨリ討テ出追散シ敵アマタ討取ル後ニ信長康之ヲ召テ此
働ヲ賞美セラル

七年己卯三月五日信長信忠攝州へ進發アリ 八日伊丹向城ノ面々藤孝ヲ初メ諸将士卒ノ働キ
マテモ聞届ケ感賞アリ サテ去年ヨリ在陳ノ大小名ニ暇賜ハリ代テ勤ムヘキ旨命セラレケレハ
藤孝父子モ勝龍寺ニ歸城康之モ屏嶋ヲ引渡シテ歸ル
五月惟任光秀丹波二在陳シテ國中ノ諸将ヲ攻ム 藤孝助勢ス 五日西丹波氷上城主波多野
主殿助宗長・同美作守宗貞八幡山ニ出張シテ合戦ス 味方死傷數多アリトイへ共終ニ打勝ツ
光秀東丹波峠沓掛細野西ノ岡本目等ノ城ヲ藤孝ト倶ニ攻落ス 其後攝州野瀬口ヨリ信長ノ助勢
攻入ル 藤孝光秀ト丸山岡山等ノ城々ヲ攻落ス 其後波多野主殿助・同美作守ヲ攻ムルニ防術
盡テ自害ス
七月惟任光秀波多野カ一族等一揆ヲ語ラヒ楯籠リシ丹波峰山城ヲ攻ム 加勢トシテ藤孝父子
出陳ス敵兵思ヒ切リ城ヲ出テ相戦フ 藤孝父子光秀ト山ノ高ミニ在リ光秀ノ先驅荒木民部少輔
切立ラルゝヲ見テ明智次右衛門アノナリハト云處ニ志水雅楽助進テ敵ヲ討首ヲ提テ来ル 光秀
之ヲ見テ其方事今ニ始メサル働キト感賞ス 城兵ハ大半討レ餘ハ城ヲ落チ去ル

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