津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

春に想う

2010-03-12 23:41:01 | 徒然
  水仙の淡い色なる画をかくる
         水仙の花が咲くと死んだ母を想います。

  命名の墨の香ほのと春立ちぬ
         二男が生まれたときの作です。37年たちました・・独身です・・
  
  生きよとて胸のうちなる嵐かな
         人生思いがけない事に遭遇します。祈るばかりの最近です。

  孫のゆびの先なる枝の初音かな
         実は今年はまだホーホケキョを聞いていません・・

  芹の香をめであと一椀を所望する
         芹ごはんは私の大好物です。今年も度々いただいています。

  ゆび栞してうたた寝や春の風
         今日の作です。本を読んでいてついうとうとしてしまいました。
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細川家譜--細川藤孝譜 ・・ 5

2010-03-12 15:40:34 | 細川家譜

四月六日二條ノ屋形造營畢リテ義昭移徒シ翌日祝ノ散樂アリ五月信長岐阜へ歸城ス

六月義昭権大納言ニ任シ従三位ニ叙セラレ参内ノ規式厳重ナリ藤孝モ随従ス

元亀元年庚午六月信長浅井長政・朝倉義景ト江州姉川ニテ合戦ノ催アリ 将軍家助勢有ヘシ
トテ藤孝へ畿内江州ノ豪族浪人等ヲカリ催スヘキ旨命セル 義昭進發ノヨシヲ觸レ三上兵庫頭
輝房ヲシテ催促ノ面々ニ書ヲ賜ハリ藤孝ヨリモ書ヲ添ル コレニ依テ佐々木・京極・朽木等ヲ初
メ軍勢ヲ催シ進發有ヘキ筈ノ處江州ノ軍散シケレハ其事止ヌ 廿八日信長徳川家康ト両旗ニテ
浅井朝倉ト姉川ニテ合戦アリ 浅井朝倉敗軍シケレハ七月六日信長上洛シ姉川ノヲ将軍家
へ獻シ岐阜へ歸ル

八月三好笑岩・同釣垂攝州ニ蜂起シ野田ノ要害楯籠リ三好備中守政久・同式部入道為三・同
新左衛門長徳・東條紀伊守頼長・篠原玄蕃允・奈良但馬守・岩成主税介古通等七千餘人ニテ
馳加ル 安宅武蔵守・同甚太郎・齋藤龍興・長井隼人興重等五十餘福嶋ノ城ヲ守リ逆意ヲ震
フ 信長ハ廿日岐阜ヲ發シ廿八日攝州ニ至リ所々放火シ九月三日義昭京ヲ進發セラレテ攝州
中嶋ニ着陳アリ 信長ハ天満森ニ陳取十二日義昭浦江ノ古城ニ入ル 藤孝・三淵・上野・一色・
仁木・大館・沼田等随従ス 信長ハ川口二向ヒ城ヲ築キ平手監物清澄・佐々内蔵助成政ヲシテ
守ラシム 信長モ本陳ヲ寄セ諸勢段々ニ仕寄攻近ク敵方ニハ紀州根来寺雑賀ノ一揆本願寺ノ
門主モ三好勢ニ加ハリ大ニ勢ヲ震フ 十四日ヨリ稠敷鉄炮ヲ發チ掛廿日殊ニセリ合ヒ強ク信長
ノ兵利ヲ失ヒ引返ス 義昭モ共ニ危ク見ヘケル處ニ藤孝ヲ初メ三淵・和田・一色ナト取テ返シ各
血戦シテ競ヒ来ル敵ヲ追退ケ義昭恙ナシ 信長モ危ナカリシニ前田又左衛門數多ノ敵ト戦ヒケ
ルユヘ難ナク引取タリ 斯テ猶對陳ノ處浅井・朝倉大軍ヲ卒シ宇佐山ノ城ヲ攻メ京へ亂入スヘ
キヨシ廿一日ノ夜聞へケレハ信長驚キ先ツ三好退治ヲ差置味方ノ城々ニ軍兵ヲ残シ江州ニ馳
向フ 義昭モ人數残シ歸洛アリ

十月廿一日高槻城主和田伊賀守将軍家暱近ノ衆ヲ語ラヒ一揆共ノ楯籠ル御牧ノ砦ヲ攻ムヘシ
トテ翌廿二日藤孝・一色式部少輔・和田伊賀守ト牒シ合未明ヨリ取懸テ攻崩ス

元亀二年辛未十月三好兵庫頭長勝・同式部入道為三・津田新太夫光房ヲ将トシ其勢四千餘ニ
テ江州動亂ノ隙ヲ伺ヒ攻上リ城州佳山ニ出張ス 依之将軍義昭ヨリ藤孝并三淵・二階堂等大津・
松本・洛中ノ諸浪人舊臣等ヲカリ催シ三千餘ニテ打向フ 又伊勢國長野ノ城主長野宮内大輔植
藤へ将軍ヨリ加勢ノ事命セラレシニ植藤病気ニ付一族細野壹岐守藤敦ヲ大将トシテ五百餘ニテ
馳加ハル 藤孝ハ佳山邊焼キ拂ヒ廿日早天ヨリ合戦アリ 互ニ苦戦シ二階堂駿河守討死三淵モ
深入シテ危カリシニ藤孝是ヲ助ケ横合ニカゝツテ突崩シ敵ヲ討取ル 藤孝ハ三上兵庫頭カ勇士
宇野孫七郎ト鑓ニテセリ合ケルカ宇野透間ナク突カゝリ藤孝カ鑓ヲ打折シユヘ刀二テ働キケルヲ
畑野壹野守小高キ所ヨリ見テ押隔テ横鑓ヲ入レ壹野守家老真柄伊右衛門持タル鑓ヲ藤孝へ與
ヘシカハ藤孝其鑓ヲオツトリ無二無三ニ突カゝリテ宇野ヲ突フセ首ヲ取ル 真柄カ差物ハ一間半
ノ棒ヲ漆ニテヌリ金ノ麾ヲ附ケルニ其時棒ヲ抜鞘ヲハツシタレハ大身ノ鑓ナリ其鑓ニテ相働ク 此
時石山ノ世尊院宥山ト云僧モ働アリ 三淵ト藤孝ハ鬨ヲアケ攻カゝレハ敵悉ク崩レ津田ハ討レ三
好ハ攝州サシテ敗走ス 藤孝并三淵ノ手ニ討取處ノ首三百餘ナリ 其夜藤孝細野カ方へ往テ今
日ノ事ヲ謝シ包永ノ脇差ヲ贈リ真柄ニハ金子ヲ遣セシナリ

興福寺ノ僧徒松永ニ心ヲ合セ南都ニ蜂起ス 将軍ヨリ討手トシテ藤孝并三淵ニ五百餘ヲ添テ差
向ラル 僧徒大和國多門ノ城ヲ出テ三所ニ備フ 依之下筋ハ渡邊小四郎中筋ハ津田與三郎上
筋ハ細野壹野守打向フ 興福寺ニ名ヲ得タル荒三位ト云フ悪僧鑓ヲ以テ十三人突伏セ細野ト鑓
ヲ合セ細野既ニ討ルへカリシニ藤孝十文字ノ鑓ニテカゝリ暫ク勝負ナカリシニ鑓ヲ弃テ荒三位ト引
組ミ抑ヘテ首ヲ取ル 猶進テ士卒ヲ励シ敵陳ヲ討破リ首百三十ヲ得タリ 夫ヨリ渡邊・津田・細野
モ一ツニナリ敵ヲ追立三淵手モ勝利ヲ得歸陳ノ上将軍感状ヲ両人ニ給ハリヌ 
松永ニ與スル山城ノ諸浪人奥田三郎兵衛尉秀尚ヲ将トシテ上山城ノ内戸野ト云所ニ要害ヲ構へ
山田ノ城ト號ケ楯籠ル 将軍ヨリ藤孝并三淵・上野ニ命セラレ二千餘ニテ打向ヒ攻落ス 松井康
之ヲ始トシテ各働キアリ 細野ハ将軍ノ近習ニ有ケルカ俄ニ命ヲ受ケテ跡ヨリ駈付敵ヲ追崩ス 
将軍ヨリ藤孝并三淵ニ感状ヲ與ヘラル

三年壬申此比三好義継・畠山昭高専ラ心ヲ将軍家ニ委ス 既ニシテ昭高義継ト睦カラス 松永久
秀父子共ニ義継ニ與シテ時節ヲ待處ニ昭高家老遊佐河内守政賢主人昭高ニ不快ヲ挟ミ遊佐カ家
臣等昭高ヲ滅サント欲シテ義継ヲ頼ミケレハ直ニ加勢ノ人數ヲ遣シ四月十五日昭高ヲ滅シ高屋城
ヲ取ル 松永モ是に助勢スルノ由聞ユ 信長上洛アリテ此由ヲ聞キ遊佐カ罪一日モ寛スへカラスト
テ柴田勝家・佐久間信盛ヲ大将トシテ軍勢ヲ差向ル 将軍ヨリモ藤孝并三淵ヲシテ助勢セシム 
彼是三萬餘兵高屋城ヲ取圍テコレヲ取ル 藤孝カ手ニ討取ル首凡五十三級ナリ 三好義継ハ私ノ
意趣ニテ遊佐ニ加勢シ昭高ヲ討取ルノ由信長ノ不審ヲ蒙リケレハ義継ハ若江城松永久秀は和州
志貴城子息久通ハ同國多門城ニ籠リテ罪ヲ謝ス 八月信長ヨリ書ヲ以テ河内國遊佐ヲ討ヘキトノ
事申越ケレハ藤孝兵ヲ發シ遊佐ト河州正覺寺ニテ合戦ス 三好義継・同山城入道若江枚方ヨリ進
テ遊佐ヲ助ク 依之松井康之ニ遊佐ヲ抑へサセ藤孝ハ三好ト合戦シテ義継ヲ若江ニ追退ケ直ニ枚
方ニ至リテ山城入道カ要害ヲ取巻キ二日ニ夜手痛ク攻ケルユヘ三好方ノ茨木・三宅・高槻・大坂・
若江・全體寺・正覺寺・吹田等ヨリ各兵ヲ發シテ山城入道ニ後援ス 藤孝九月中旬ヨリ十一月末マ
テ攝州・河州ニ在陳シテ吹田・三宅・茨木等ノ諸城ヲ攻落ス

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熊本の「慶安御觸書」全文 2/2

2010-03-12 08:58:01 | 歴史
一、山方ハ山のかせき浦方は浦のかせき夫々ニこころを付毎日ゆたんなく身をおしますかせき可申候/
   雨風又ハ煩隙入り候事もこれあるへき間かせきにてもうけ候ものむさと使ひ候ハぬやうに仕るへき
   事
一、山方浦方には人居も多く不慮なるかせきもこれあり山にては薪材木を出し柑類を賣買し浦方にてハ
   塩を焼魚を取り商買仕るに付いつもかせきハこれあるへきとそんし以来の分別もなくたくはえ候物を
   も當座/\にむさとつかひ候ゆへ飢饉の年なとハ里方の百姓よりひとしほうへ死する者も多く有之
   と相聞候間きゝんの年の苦労つね/\わするべかさる事
一、獨身の百姓隙入候か又煩ひ田畑仕付兼候時ハ五人組惣百姓助け合作りあらし候ハぬやうに可仕
   候/次ニ獨身の百姓田をかき苗をとり明日ハ田を植へしとぞんじ候ニ地頭代官の所又ハ公儀の御
   役にさゝれ五日も三日も過候へハ取置候/苗もあしくなり其外の苗も節立植時過候故その年のつ
   くりもあしく候/名主組頭此考を仕り獨身百姓右申如く役にさゝれ候時ハ下人とも持よき百姓にさし
   かへ獨身の百姓を解放可申事
一、夫婦かけむかひの百姓にて身上もならず郷中友百姓ニ日比いやしめられ候ても身上持揚米金を沢
   山にもち候へ者名主おとな百姓はしめ言葉にてもよくあひしらい末座ニ据へ候者をも上座へ直し馳
   走仕るものにて又前かと身上よき百姓も不べん仕れハ親子親類名主組頭迄も言葉をかけすいやし
   むる者ニ候間成程身持を能つかまつるへき事
一、一村の内にて耕作に精を入身持をよく致し身上能者一人あれハ其真似を仕り郷中の者皆よく稼くも
   のに候/一郡の内にて左様なる在所一村これあれハ一郡皆身持をかせき候/左候へハ一國の民
   皆豊になり其後は隣國迄も其ひゝきあり地頭はかわるもの百姓は末代其所の名田を便りとするもの
   に候間よく身持ちをいたし身上よくなり候は百姓の大きなる徳分にてハ無之候哉扨又一郷ニ徒なる
   無法者一人あれハ郷中皆々其気に移り百姓仲間の云事たえす公儀の御法度なと背候へは其者を
   奉行所へ召連参り上下のぞふさ番等以下は苦労一郷の費大きなる事物事出来候ハぬやうに皆々
   よく念入るへし此趣ハ名主たるもの心にこれあり能々小百姓におしえもふすへし
     附り隣郷の者をも中能他領之者公事抔仕間敷事
一、親に能々孝行の心深く有へし親ニ孝行の第一は其身無病ニて煩候ハぬやうに扨また大酒を買呑ミ
   喧嘩好キ仕らさるやうに扨身持をよくいたし兄弟中よく兄ハ弟をあはれミ弟ハ兄ニしたかひたかひニ
   むつましけれハ親殊の外悦ふものニ候此趣を守り候へハ佛神の御恵も有て道にも叶ひ作も能出来
   キ取実も多く有てものニ候/何程親ニ孝行の心ありとも手前ふ便にてハなりかたく候間なるほと身
   持をよくつかまつるへく候/身上ならす候へ者貧苦の煩も出気心もひがみまたハぬすみをも仕り公
   儀御法度をも背きしばりからめられ牢人又ハ死罪・磔なとニかかり候時は親の身になりてハ何ほと
   かかなしくこれあるへく候/其上妻子・兄弟・一門の者ニも嘆をかけ恥をさらし候間能々身持をいた
   しふべん仕らさるやうに毎日毎晩心掛可申事/右の如くに物事念入身持をかせき申へく候/身上
   能なり米・金・雑穀をも持候ハゝ家をもよく造り衣類・食物以下ニ付心の侭なるへし/米・雑穀を沢
   山ニ持候ニて無理ニ地頭代官よりも取る事なく天下泰平の御代なれハ脇よりおさへとる者もこれな
   く然ハ子孫まて有徳ニ暮し世間ききんの時も妻子下人等をも心安く育ミ候/年貢さへすまし候へは
   百姓程心安き者はこれなくよくよく此の趣をこころかけ、子々孫々まて申つたへよくよく身持をかせ
   きもふすへきものなり。
       慶安二年丑二月廿六日

  右慶安二年
  公儀より普く觸示され候御書付ニ候/何方ニても■難有畏り奉りし事たるへく候へとも歳月隔り候
  へ者今ハ知る人も少ナかるへく候/かゝる有難き御恵の御趣意なれハこのたひ改て当御領内へ再
  ひ諭し下され候之間村々庄屋組頭より小百姓迄此旨を以て朝夕おこたりなくニ面々よく身をもち農
  業精出し候ハゝ此末たとひ年柄よからぬ時ありとも御年貢滞りなく家族も寒へ飢るにはいたるまし
  く候/但多葉粉の事者昔ハ禁たりしか後ゆるされて今ハ一統の風俗となり貴賎とも日用のものとな
  り候/しかれともなるへきたけ呑マざるニしくハなく候/扨多葉粉よりも害の甚しきハ酒にて第一怠
  を生し奢を長しけんくわこふろんも是より起り身をも家をも喪ふに至るは此物にて候/祭礼祝儀老人
  病者の養は格別に候へとも年若きもの決して飲過すへからす仍て今こゝに添て諭しをき候/すへて
  当御領内者民たる者この御書附の旨能々心得へき事肝要に候/村々は頒ち頒ち與ふるには数多
  書写すへけれハおのつから誤字脱字もあらんことを恐れて板にきさむものなり
      文政十三年庚寅年三月 岩村地方役所
      天保二辛卯年二月於菊城写之
                   田之繁 花押
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