津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

パンの伊勢屋

2010-03-04 17:54:40 | 徒然
 石光真清の自伝的著「城下の人」に、パンの伊勢屋のことが書かれている。明治十三年横井小楠の一族がパン屋を開店したという。横井家は伊勢新九郎の末裔だというから、「伊勢屋」という屋号も尤もだと納得させられる。

「横井家は伊勢屋という看板をかかげて妙見社の前にパン製造販売業を開店した。この時代にパン屋は稀らしく熊本でも初めてのものであった。これには村の人たちもびっくりした。ふっくりと渦巻型に焼かれたパンが、店頭に並べてあるところは、いかにも美味しそうであるが、この頃の人には、ただ珍しいだけで店頭には見物人が一ぱいだが手を出す人がいなかった。私も一度も口にしないうちに商売にならず廃業してしまった」

 横井家ではこの時期小楠も、甥の左平太も太平も既に亡い。私は横井家の動静には全く疎いのでこのパン屋が誰の手によって開かれたのか知る術もないが、さすが開けて居られる。「武士の商法」なのか、「時期尚早」だったのか・・・廃業されたようだ。

 熊本のパン屋さんの第一号は、明治21年創業のMパンだとばかり思っていたが、小楠先生ご一族だとは・・・恐れ入りました!!
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忠興の真心

2010-03-04 09:09:07 | 新聞
 八代市の光圓寺にある、忠興が寄進したとされる梵鐘が、熊本県の重要文化財に指定される事になりそうだ。この鐘は忠興が織田信長の菩提を弔う為に創建した、泰巖寺(丹後宮津→豊前小倉→肥後八代・泰勝院跡)にあったものだが、廃寺となり光圓寺に移された。今日の熊本日日新聞によると「慶長十九年(1614)忠興が織田信長の33回忌にあたり寄進した」とされる。銅製で総高123㌢、口径71.3㌢で「本能寺の変の後、藤孝・忠興親子が髪を切り信長への弔意を示したことや、両家の深い縁を示す文言」が刻まれているという。正式決定は4月以降となる。

 新聞では泰岩寺と表記してあるが、寺名は信長の法号「総見院殿泰巌信齢大居士」にちなんだものであるから、泰巖寺とするべきであろう。ちなみに明治維新後廃寺となった泰巌寺の跡は、現在の八代第一中学校のグランドとなっている。その一角に寛永十年(1633年6月3日)、忠興が信長供養のために建立した五輪塔が残されている。また後に建立された忠興の供養塔が残されている。信長によって細川家-明智家の縁が結ばれたが、その明智の手により信長は殺された。それ故の信長に対する畏敬の真心が表されている。

 一方光圓寺本堂には、「安政丁巳(4年-1857)之季秋 月谷雲桂画之」とする、見事な天井画が残されている。月谷雲桂は本名は安藤雲桂、八代松井家に仕えていた絵師である。
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