以降は宇土支藩の重役・福知平左衛門謀殺に係わる記述である。真実はようとして知れない。
真源院様(光尚)御他界 六丸様御遺領末江仰出間ハ
式部殿を初其外御家老御暦々之御気配等色々有
之候由古老の咄も承候事ニ御座候其内丹波守様(行孝)御
手前之御老中江密事之筋有之候被後半國
御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣
出来寄候由早打飛脚を以宇土■来彼家老を初
御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦
至極■候處福知平左衛門ハ扨々是ハ大切至極之出来ニ手
御家之滅亡此節ニ極り候程次第ニて御本家ニも可被
為障■■■之奴原上を奉冥条不届き千万拙者直ニ
奉諌候由然ル共曽て御承引無之小屋ニ引込居候様ニ
被仰付候ニ付不得止引退ニ翌日尚又出勤押手御目見
奉願如前日強て御諌申上候処御立腹ニ而御手打
被仰付候由
但一説ニそ翌日御呼出に而御手打被仰付候共申候殺候
人そ釼術者名を失念益々御意ニ叶御座候御側ニ罷在候
由其節も御差図ニ手右之浪人切候由初太刀ハ切損シ
二刀二切留候由也
右之事御母上様被聞召以之外逆鱗ニ手御目通不被成
様ニと被仰一年餘御對面不被成由左候而丹後守様
従 公義被為召候ニ付而御出仕之御支度ニ而御式臺
迄御出被成候處平左衛門が亡霊切害被仰付候節之通ニ而 霊ハ異体字ニヨル
訖ト御式臺之真中御通筋ニ座■罷在候を被御覧候而
忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分
不勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極て密事乍ラ
如何して式部殿被成御聞ニ■其節段々御手前之
御老中様江仰達候様とも有之八代ニそ委キ御記録も
有之由咄傳申候左候而其以後御末家より御代替ニ者
奉對御本家■意を含申間敷段八代江誓紙を
被有御取候由承り傳候勿論此儀者古老咄傳ニ而虚
實之儀者存不申候
但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて
二十年迄者■をチンチク竹垣にして明屋敷ニ
なり居申候
一 近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭日
ニ者町在之者参詣被成御免由農商人も多参詣
仕よし此相殿ニ福地を御祀被成由宇土町邊之下説
之由ニ而是以虚実そ存不申候事 丹翁様之
御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名
被仰付福永平太夫と申候外ニ今一人地下何某と改名
被仰付両人共百五拾石完ニ而新規ニ被召出候福地
名字を二ツニ分其跡被成御立候思召之由ニ候事
丹後守代ニ福地之■を神ニ祀江戸二本榎下屋
敷内ニ小社を建立■神宮と崇申候宇土ニ者
無之候祭日六月三日也
一 福地之名字壱人ハ柴崎勘左衛門二男ニ而知本■右衛門と
申候江戸宇土ニ分相建申候瀬兵衛・勘右衛門共ニ
家老役也
以上
于時文政七歳仲冬七日写之 木壽
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付餞之由
一 丹後守行孝丑ノ年ニ而慶安三年十四歳ニ當ル未タ御後見可仕御事
齢ニ無之 公儀江密事之手遣等可有之時節ニ無御座候殊更
綱利公御代ニ至ツ而ハ御本末之御間も 御先代より者振合宜敷候
左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
起り候事にても候哉之事
圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名 福地平左衛門勝定
墓所ハ宇土泰雲寺ニ在
一 綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候福地
命日者同年六月三日
右之条々不審ニ付書付入置申候以上
己四月 井戸一水
井戸一水ハ井戸亀右衛門
子孫ニ而宇土御家司
代々勤候井戸ト見へ候
以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ
真源院様(光尚)御他界 六丸様御遺領末江仰出間ハ
式部殿を初其外御家老御暦々之御気配等色々有
之候由古老の咄も承候事ニ御座候其内丹波守様(行孝)御
手前之御老中江密事之筋有之候被後半國
御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣
出来寄候由早打飛脚を以宇土■来彼家老を初
御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦
至極■候處福知平左衛門ハ扨々是ハ大切至極之出来ニ手
御家之滅亡此節ニ極り候程次第ニて御本家ニも可被
為障■■■之奴原上を奉冥条不届き千万拙者直ニ
奉諌候由然ル共曽て御承引無之小屋ニ引込居候様ニ
被仰付候ニ付不得止引退ニ翌日尚又出勤押手御目見
奉願如前日強て御諌申上候処御立腹ニ而御手打
被仰付候由
但一説ニそ翌日御呼出に而御手打被仰付候共申候殺候
人そ釼術者名を失念益々御意ニ叶御座候御側ニ罷在候
由其節も御差図ニ手右之浪人切候由初太刀ハ切損シ
二刀二切留候由也
右之事御母上様被聞召以之外逆鱗ニ手御目通不被成
様ニと被仰一年餘御對面不被成由左候而丹後守様
従 公義被為召候ニ付而御出仕之御支度ニ而御式臺
迄御出被成候處平左衛門が亡霊切害被仰付候節之通ニ而 霊ハ異体字ニヨル
訖ト御式臺之真中御通筋ニ座■罷在候を被御覧候而
忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分
不勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極て密事乍ラ
如何して式部殿被成御聞ニ■其節段々御手前之
御老中様江仰達候様とも有之八代ニそ委キ御記録も
有之由咄傳申候左候而其以後御末家より御代替ニ者
奉對御本家■意を含申間敷段八代江誓紙を
被有御取候由承り傳候勿論此儀者古老咄傳ニ而虚
實之儀者存不申候
但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて
二十年迄者■をチンチク竹垣にして明屋敷ニ
なり居申候
一 近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭日
ニ者町在之者参詣被成御免由農商人も多参詣
仕よし此相殿ニ福地を御祀被成由宇土町邊之下説
之由ニ而是以虚実そ存不申候事 丹翁様之
御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名
被仰付福永平太夫と申候外ニ今一人地下何某と改名
被仰付両人共百五拾石完ニ而新規ニ被召出候福地
名字を二ツニ分其跡被成御立候思召之由ニ候事
丹後守代ニ福地之■を神ニ祀江戸二本榎下屋
敷内ニ小社を建立■神宮と崇申候宇土ニ者
無之候祭日六月三日也
一 福地之名字壱人ハ柴崎勘左衛門二男ニ而知本■右衛門と
申候江戸宇土ニ分相建申候瀬兵衛・勘右衛門共ニ
家老役也
以上
于時文政七歳仲冬七日写之 木壽
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此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付餞之由
一 丹後守行孝丑ノ年ニ而慶安三年十四歳ニ當ル未タ御後見可仕御事
齢ニ無之 公儀江密事之手遣等可有之時節ニ無御座候殊更
綱利公御代ニ至ツ而ハ御本末之御間も 御先代より者振合宜敷候
左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
起り候事にても候哉之事
圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名 福地平左衛門勝定
墓所ハ宇土泰雲寺ニ在
一 綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候福地
命日者同年六月三日
右之条々不審ニ付書付入置申候以上
己四月 井戸一水
井戸一水ハ井戸亀右衛門
子孫ニ而宇土御家司
代々勤候井戸ト見へ候
以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ