津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

梅原丹七・福地平右衛門一件畧記 ・・ 4 (了)

2010-03-02 07:34:25 | 歴史
     以降は宇土支藩の重役・福知平左衛門謀殺に係わる記述である。真実はようとして知れない。

  真源院様(光尚)御他界 六丸様御遺領末江仰出間ハ
  式部殿を初其外御家老御暦々之御気配等色々有
  之候由古老の咄も承候事ニ御座候其内丹波守様(行孝)御
  手前之御老中江密事之筋有之候被後半國
  御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣
  出来寄候由早打飛脚を以宇土■来彼家老を初
  御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦
  至極■候處福知平左衛門ハ扨々是ハ大切至極之出来ニ手
  御家之滅亡此節ニ極り候程次第ニて御本家ニも可被

  為障■■■之奴原上を奉冥条不届き千万拙者直ニ
  奉諌候由然ル共曽て御承引無之小屋ニ引込居候様ニ
  被仰付候ニ付不得止引退ニ翌日尚又出勤押手御目見
  奉願如前日強て御諌申上候処御立腹ニ而御手打
  被仰付候由
     但一説ニそ翌日御呼出に而御手打被仰付候共申候殺候
     人そ釼術者名を失念益々御意ニ叶御座候御側ニ罷在候
     由其節も御差図ニ手右之浪人切候由初太刀ハ切損シ
     二刀二切留候由也

  右之事御母上様被聞召以之外逆鱗ニ手御目通不被成
  様ニと被仰一年餘御對面不被成由左候而丹後守様
  従 公義被為召候ニ付而御出仕之御支度ニ而御式臺
  迄御出被成候處平左衛門が亡霊切害被仰付候節之通ニ而     霊ハ異体字ニヨル
  訖ト御式臺之真中御通筋ニ座■罷在候を被御覧候而
  忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分
  不勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極て密事乍ラ
  如何して式部殿被成御聞ニ■其節段々御手前之
  御老中様江仰達候様とも有之八代ニそ委キ御記録も

  有之由咄傳申候左候而其以後御末家より御代替ニ者
  奉對御本家■意を含申間敷段八代江誓紙を
  被有御取候由承り傳候勿論此儀者古老咄傳ニ而虚
  實之儀者存不申候
     但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて
     二十年迄者■をチンチク竹垣にして明屋敷ニ
     なり居申候
一 近年宇土御館スクナ彦之神を御勧請被成祭日
  ニ者町在之者参詣被成御免由農商人も多参詣

  仕よし此相殿ニ福地を御祀被成由宇土町邊之下説
  之由ニ而是以虚実そ存不申候事 丹翁様之
  御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名
  被仰付福永平太夫と申候外ニ今一人地下何某と改名
  被仰付両人共百五拾石完ニ而新規ニ被召出候福地
  名字を二ツニ分其跡被成御立候思召之由ニ候事
  丹後守代ニ福地之■を神ニ祀江戸二本榎下屋
  敷内ニ小社を建立■神宮と崇申候宇土ニ者
  無之候祭日六月三日也

一 福地之名字壱人ハ柴崎勘左衛門二男ニ而知本■右衛門と
  申候江戸宇土ニ分相建申候瀬兵衛・勘右衛門共ニ
  家老役也
    以上

    于時文政七歳仲冬七日写之 木壽

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      此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付餞之由
  一 丹後守行孝丑ノ年ニ而慶安三年十四歳ニ當ル未タ御後見可仕御事
    齢ニ無之 公儀江密事之手遣等可有之時節ニ無御座候殊更
    綱利公御代ニ至ツ而ハ御本末之御間も 御先代より者振合宜敷候
    左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
    起り候事にても候哉之事
       圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名 福地平左衛門勝定
          墓所ハ宇土泰雲寺ニ在
  一 綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候福地
    命日者同年六月三日
       右之条々不審ニ付書付入置申候以上
          己四月       井戸一水
                       井戸一水ハ井戸亀右衛門
                              子孫ニ而宇土御家司
                             代々勤候井戸ト見へ候

    以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ
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