【古今傳授】
十二月六日三條大納言實澄ヨリ藤孝へ古今集ヲ傳授アリ 右ハ中古鳳闕ニモ絶タリシヲ
濃州ノ士東下野守平常縁是ヲ傳得テ紀州ノ種玉宗祇法師ニ傳ヘ宗祇ヨリ西三條内府實隆
逍遥院ト號ス ニ傳フ 其息右府公條 穪名院ト號ス 其息内府實澄 初實世 後實枝 三光院ト號ス
ヨリ藤孝ニ傳ヘラレタリ
同月義昭へ信長ヨリ諫言十七ヶ條ヲ上ツル 其一ッニ将軍牢浪ノ節忠義不浅面々ニハサシ
テ賞ヲモ與ヘ給ハス便倭邪僻ノ輩ハ除目ノ日モ度々加官ヲ蒙ルト承ル 善悪等シキ寸ハ功
臣倦トサヘアルニ却テ如斯ノ段尤如何敷存ストアリ 藤孝モ屢諫書ヲ奉ル故将軍常に不興
ナリ 清信ハ出頭第一ニテ藤孝トハ屋形造營ノ節ノ出入彼是兼々不快ナル上藤孝數度ノ戦
功有りテ信長ノ感賞ニ與リシユヘ旁以テ嫉ミ強ク折々讒ヲ構へ次第ニ藤孝ヲ疎マルゝ
折柄信長此諫書アリケレハ義昭特ニ怒テ含ミ信長共ニ不快ヲ挟マル 是ヨリ先キ武田信玄
ノ計策ニテ義昭ト信長トノ間稍隔意ヲ生ス
天正元年癸酉二月信長上洛去冬藤孝攝州ノ戦功ヲ賞美ス 此時信長ハ将軍ト不快ユヘ年
頭ノ賀ヲモ述ル事無ク既ニ矛楯ニ及フヘキヲ藤孝和順ヲ取扱ヒテ故ナク岐阜へ歸城ス
因テ藤孝ハ屢将軍ヲ諫ムト雖共聴レス 却テ勘氣ヲ蒙リ鹿カ谷へ退キ既ニ剃髪セントス
杉原淡路守友之コレヲ知テ言上ス 義昭大ニ愕キ三淵大和守ヲ遣ハシテ藤孝ヲ召サル
依テ高倉参議範國・伊勢伊勢守貞隆等ト相議シテ三ヶ條ノ願書ヲ上ツリテ曰ク信長ト矛楯
ノ思召被止事・一条 近年河州若江ニ度々上使ヲ立ラレ御懇ノ儀ナリ彼ハ御家ノ大敵前将
軍ノ怨ナリ是ヲ以テ其器ニ當ル大将ヲ以テ御誅伐可有之處却テ御懇意兼々京都へ可被召
返ノ思召是何ノ謂ソヤ・二条 近年御近習ト穪シ尼子兵庫頭高久・番頭大炊介義元・岩成
主税介慶之・荒川掃部頭政次右四人ノ者共ハ永禄八年前将軍ヲ奉弑怨敵ノ者ナル二然ル
ヲ却テ御馳走ナリ信長ハ其所ヲ相助置シナリ信長ノ志御了簡アラハ随分御慎可有之處彼
等ヲ御懇情ニテ卒忽ノ思召立ナリ・三条 右ノ趣執達シケレハ将軍同意ニテ先ツ信長ト和
睦アリ 藤孝廿日計鹿ヶ谷ニ蟄居シテ此時出仕スルトイへ共将軍ノ意思前々ニ變リ何トナ
ク疎セラル
二月将軍ト信長トノ和議破ル 其故ハ去冬信玄遠州味方ヶ原ニテ家康ト合戦ノ後信長モ尾
州熱田邊ニ出陳ス 於是上野信清ヲ使トシテ信玄へ信長・家康ト和睦スヘキ由申越トイへ
共信玄承引ナク却テ信長ノ罪状ヲ數へテ義昭ニ訴フ 此比信長ハ既ニ數ヶ國ヲ内従フト雖
共公領少クシテ家人ノ領地モ微々ナル故清信等ヲ初メ織田家ヲ恨ルモノ多シ 信玄ハ數々
ノ贈物等有ケル故當座ノ音信ニ心迷ヒ信玄ハ日本無雙ノ猛将ナリ彼ヲ頼ミ信長ヲ誅伐スヘ
キヨシ強テ申ニヨリ又甲州ニ使者ヲ立テラレケル 藤孝ハ次第ニ遠サケラルゝトイへ共真實
ニ身ヲ委子聊カ恨ムル心ナク此時モ諫テ曰ク織田武田ノ訴ハ各我意ヲ以テ是非ヲ論シ共ニ
政道ヲ助トナラス 然レ共信玄ハ将軍家ニ對シイマタ尺寸ノ功アラス申處モ虚實知リ難シ
信長ハ君武将ニ備リ玉フモ皆此蜂起先ニテ其功著シケレハアハレ一旦ノ憤ヲ止ラレ和融ノ
取組然ヘシ彼タトイ野心ヲ挟ムトモ君仁心ヲ本トシ遊興ヲ制シ政道ニ私ナクハ争カ天モ加護
ナカランヤ 義昭怒テ曰ク縦ヒ其功アリトモ今不義ヲ重ル寸ハ則逆臣ナリ急キ誅スヘキトナ
リ 清信等ノ倭臣交モ讒シテ終ニハ藤孝ヲモ伐ントハカル 三淵藤英諫ト云へ共聴カス 藤
孝遂ニ居城ニ蟄居ス 此事岐阜ニ聞へケレハ信長愕キ村井長門守・嶋田所之助・僧日乗ヲ
使トシテ聊野心アラサル由申入レ人質ヲ納レテ和融ヲ乞ヒ塙九郎左衛門・松井友閑等モ上
洛シテ和睦ノ儀ヲ申トイへ共調ヒ難シ
三月信長ノ使者ヲ追返シ武田・上杉・浅井・朝倉等ヲ初メ五畿内四國迄モ信長追討ノ教書ヲ
傳へ合戦ノ用意トシテ先ツ江州石山堅田ニ要害ヲ構ス 信長詮方ナク軍勢ヲ差向ケ石山堅
田ヲ攻落ス 其注進ニヨリテ信長廿五日岐阜ヲ發シ廿七日大津へ本陳ヲ居へタリ 荒木村
重ハ此年比様々将軍家へ諫言ヲ納ルゝト云へ共承引ナキ故力及ハストテ信長ノ味方トナリ
廿九日出向フ 藤孝ハ勝龍寺ニ在リシヲ信長招ストイへ共来ラス使度々ニ及ヒ不得止来テ
對面ス サテ種々ノ噯アリケレ共義昭曽テ承引ナキユヘ信長今ハ詮方ナシトテ四月三日先
ツ洛外ノ寺社ヲ除キ所々ヲ焼立大軍洛中へ押向ヒ猶和睦ノ儀許容セラレへキヤフニ侘言有
ト云へ共同意ナシ 此上ハトテ二條屋形ヲ圍ム 義昭信長ノ大軍ヲ恐レ和議モ乞レケル
六日信長ヨリ津田三郎五郎信廣ヲ名代トシテ義昭へ和睦ノ拝禮ヲ申述へ翌七日岐阜へ歸
城ス
【填島城の戦・義昭敗北】
七月義昭信長トノ和議破レ宇治填島ニ楯籠ラル 上野清信・飯川山城守ヲ先トシテ陸奥守
輝経等三千七百五十餘人ナリ 二條ノ屋形ニハ日野大納言輝資・高倉宰相永相・伊勢伊
勢守・三淵大和守以下貮千餘人入置カル信長宇治ヲ攻ラルゝ時横ニ懸ラン為ナリ 信長ハ
五日六日坂本ニ打アカリ時日ヲ移サス所々焼立十六日槙嶋城へ押寄ル 藤孝ハ深ク慮ル
事アツテ織田家ニ属スト雖共戦場ニ臨ムニ忍サルノ情義ヲ述フ 信長其志ヲ感シ藤孝ヲ残
シ置キ四五萬計リノ勢ヲ以テ急ニ攻詰ムルニ城兵随分防キ戦ト雖共終ニ勢ヲ盡テ降ヲ乞ヒ
義昭ハ普賢寺ニ入リ剃髪シテ昌山道休ト穪ス ■藤孝懇ニ助命ヲ乞フヲ以テナリ 上野清
信モ落去テ出家セリ 三淵大和守藤英・同彌四郎秋豪ハ信長ヨリ明智光秀ニ命シ坂本ノ城
ニテ切腹セシメ填島城ハ信長ノ妹聟細川六郎昭元ニ守ラシム
是ヨリ信長自ラ武家ノ棟梁トナリヌ 朝廷依頼シ玉フ
私は郵便物で墨書をしている。それに遣うのが小中学生が使う(?)プラスティックの容器に入った「お習字練習用」の墨である。古文書を読んでいるとき、文字が「読める」と言うのではなく「書ける」状態にありたいと思い、練習をしたりしている。最近では駄作ではあるが、過去の「句」を書いたりしている。爺さまの遺品の硯もあるのだが、改まって書く事でもなく「墨の星」を愛用している。入れ物は妻が使った化粧品の「壜」なのだが、これは少し油っ気が残っていて容器に墨がくっつかないのが良い。妻の母方の祖母ちゃんから頂戴したすごい墨がある。とても下手な文字を書く為に使えるような代物ではない。40ミリ×150ミリくらいの中国製のものだが、持ち主であった祖母ちゃんの連れ合い(画家)の年齢を考えると相当古いもののようだ。残念ながら二つに折れている。そんなおっかないもので下手な「お習字」は出来ない。コピーの残骸に、「墨の星」で書きなぐっているときこそ、まさに至福のときである。残り少なくなったので、100円ショップに出かけなければ成らない。