【秀吉死す】
三年戊戌八月十八日太閤伏見城ニ於テ薨ス 歳六十三 後ニ遺物ヲ利家ノ館ニテ大小名ニ頒チ賜
フ 各差アリ 忠興ヘハ體捨正宗ノ脇差松井康之ニ藤島ノ太刀ヲ賜ハル
四年己亥正月十日秀頼太閤ノ遺言ニ依リ伏見城ヨリ大坂ニ移ル 此砌伏見・大坂ノ間何トナク物騒
シク其子細ハ太閤薨後内府権リニ天下ノ事ヲ決シ威権獨熾ナルヲ以テ石田三成等之ヲ妬ミ種々姦
計ヲ廻ラシ内府ヲ殪サン事ヲ謀ル故ナリ 於是内府ニ心ヲ歸セシ人々ハ織田有樂・京極高次・伊達
正宗・最上義光・加藤清正・福嶋正則・浅野幸長・池田輝政・藤堂高虎・黒田如水・同長政・森忠政・
有馬法印・金森法印・新荘直頼等ナリ 毎夜家康ノ館ニ集リテ守護ス 忠興モ其列ニ加ハル 堀尾
吉晴ハ此事ヲ深ク歎キ和順ノ事ヲ勧觧シ双方ニ往来して稍ク事調ヒ二月五日互ニ和睦ノ誓詞ヲ出ス
忠興ハ利家ト縁者ナレハ 利家ハ四老ノ一ナリ且忠興嫡男忠隆室ハ利家ノ女 特ニ苦心シテ同ク和睦ノ事ヲ取結
ヒ松井康之ヲ内府ノ館ニ参候セシタテ色々心ヲ盡シケリ 其後内府ト四老五奉行ノ和議破レ又伏見
大坂ノ騒キトナリ其故ハ今度和睦ノ禮謝トシテ孰モ内府ノ館ニ至リケル時利家ハ大病ナルユヘ内府
大坂へ下向アリテ利家ヘ對面之アルヤウ各申置キケレ共種々嫌疑ノ事アツテ遅滞ニ及ヒケレハ 諸
書ニ詳ナリ略之 又各憤リヲ含ミ三成殊更言ヲ巧ニシテ利家ニモ内談シ色々奸謀ヲ構へ内府ヲ斃スニ決
セリ 依之内府へ心ヲ寄ル 人々営中ニ馳参リテ守護セリ 利家ノ嫡子利長ハ忠興カ縁者ノミナラス
日比睦シカリケルニ此一大事ヲ告知セスハ後日恨ミラルへシトテ密ニ来リテ前後ノ子細ヲ忠興へ委
シク物語ノ中ニモ三成カ謀ニ家康ノ邸地狭隘ナレハ向ノ高邸ヨリ火箭ヲ以テ焼立前後ヨリ挟ミ討取ル
ヘシト巧ミシヨシ具ニ語リケレハ忠興之ヲ聞テ如此ナレハ足下家ヲ滅スノ機ナリ三成カ例ノ表裏ヲ知
リナカラ箇様ノ事ニ與ミセラレシハ觧シ得スト云ケレハ利長眼色變リ後悔ノ躰ナリ忠興又云此儀破レ
ニ成モ無事ニ成モ足下父子ノ思慮ニテ済ムヘシ 想フニ三成今ノ世ニ恐レ憚ル者ハ大納言殿 利家ノ
事ナリ ト内府ナリ 然ルニ大人大病ユヘ在世ノ内其威ヲ假リテ内府ヲ殪シ大人捐館ノ後ハ巳主ニナラ
ントノ巧ナリ 近比申カタケレ共大人死去アラハ足下モ今ノ如クハ人ノ用ヒマシ 向後内府ト三成トイ
ツレヲ戴ント思ハルゝヤ治部ヲ戴ン事我等ニ於ハ能ハサルナリ 其上内府異心ナキ事能ク存セシナ
リ 大人ニ異見アリテ和睦然ルヘシト申シケレハ利長得心アリテ貴諭一々尤至極ニ存スルナリ 若
此異見ナクンハ果シテ三成カ謀計ニ陥ルヘシ貴殿家君ニ見ヘテ説諭シ賜ハルヘシトナリ 忠興肯ハ
ス昨今ノ縁者イカテ異見ハイタスヘキト答へケレ共利長強テ同道ヲ請ヒケル故直ニ行テ次ノ間ニ扣
先ツ利長ノミ奥ニ入テシカ々々ノ趣諌メケレハ大納言疉ヲ扣キ怒リケルユヘ此事ニ付テハ越中ヲ同
道イタシタリ直ニ様子聞召サルへシト申ケレハ是へ通ラルへシトテ忠興ヲ通シ則内府違背ノ箇條指
ヲ折リ此通リニテハ往々秀頼ノ為メニ宜シカラス我等在世ノ内ニ内府ヲ打果スヘシトナリ此時忠興
ハ内府ノ罪ナキ條ヲ一々懇ニ分疏シケレハ利家大ニ驚キ暫ク黙然タリシカ始テ三成カ奸計ヲ悟リ此
上ハ兎モ角モ然ルヘク取計ヒ頼入トノ事ナリシカハ忠興喜悦シテ夜ヲ侵シ伏見ニ赴キ翌日早天内
府ノ館ニ出テ前件利家過テ悔シ旨有ノマゝニ申述ケレハ内府大ニ愕テ先ツ足下ハ我命ノ親ナリト喜
悦アリ 忠興偏ニ天下静謐ノ為メニコソ告申タレト答へ又大坂ニ赴キ内府和睦有ヘキトノ旨ヲ利家ニ
告ケレハ利家モ悦ヒケリ 此前後大坂伏見ノ間ニテモ街説多クシテ騒カシカリケレハ忠興ハ人ノ知
ラン事ヲ恐テ蓑笠ヲ被リ自ラ小舟ニ棹サシ淀川往来セシ事數回ナリ 猶外ヨリハ加藤 清正 浅野両
氏ヲ加へ彌和睦トゝノヒ廿九日利家川舟ニテ伏見ニ赴キ内府ノ邸ニ至ランレ加藤・浅野ト忠興同道
セリ 内府饗應心ヲ盡シテ懇ニ歓待シ忠興等モ接伴ス 此時利家申述ケルハ過日會議シテ憚ヲ申
入タル事聊カ私ノ宿意ニ非ス偏ニ秀頼ノ為メヲ思ヒテノ儀ナレハ必懸想アルヘカラス然ルニ貴邸端
近ニテ住所ニ宜シカラサレハ向嶋ノ第二移居然ルヘシト勧メラレ内府モ同意アリケリ
三月十一日内府大坂へ下リ利家ノ邸へ入ラル 先是忠興内府へ言ケルハ大納言ニ和議ハ相済ケ
レ共病ヲ一度モ訪ハレスシテハ情義薄キ二似タリ冀ハ日ヲ定メラレナハ忠興モ随従致スヘシト申ケ
レハ内府モ得心アリテ其後伏見ヨリ川舟ニテ大坂へ下向利家ノ邸へ入ラレ利家饗應アリ 此時接
待ニハ浅野長政集會ノ人々ニハ池田・福嶋・黒田・加藤・堀尾・藤堂等ノ數氏及忠興ナリ 内府其
夜ハ藤堂氏ノ邸ニ止宿ノ處三成カ黨與襲来ルトノ風聞シケレハ一味ノ諸大名内府ヲ守護シテ事故
ナク翌日伏見へ歸ラレタリ
廿六日内府向嶋ノ邸第 伏見城ノ出丸ノ心ニテ南ノ方ニ當ル ニ移居セリ 是ヨリ先キ三成以為ラク忠興ヲ我
黨與ニ摟スシシテハ内府ヲ滅ス大事成難カルへシトテ百方盡力シ一日前田玄以ヲ招キ我等忠興ト
不和ナル事甚謬レリ何卒和睦調フヤウ依頼スト頻ニ懇請シケレハ玄以来テ其趣ヲ述ケレ共忠興許
容セス 玄以重テ云故太閤ノ洪恩忘却ナクハ私ノ恨ヲ捨石田ト和睦セラルへシト再三説諭シケル故
佯テ之ヲ許ス 長束大蔵太輔是ヲ聞大ニ悦而申シケルハ忠興ヨリ石田へ行ンモ石田ヨリ忠興へ行
ンモ如何ナレハ先ツ我亭ニテ共ニ會シ和議然ルヘシト玄以ヲシテ申入ケルユヘ日ヲ定メテ赴シニ
三成は疾クヨリ来リテ手ニ盤上ノ乾柿ヲ捧ケ語リ接スルニ及ハス忠興ノ前ニ置キ前カタヨリ嗜好ノモ
ノ故持チ参リタリ先ツ食セラルへシト申ケレハ即チ一禮シテ食シケリ 其座ニテ三成内府ノ専横ヲ
數へテ云ケルハ此儘ニテハ天下穏ナラス終ニ内府ヲ主トスルニ至ルヘシ豈遺憾ニアラスヤ何卒秀
頼ヲ翼戴セント欲スルニヨリ内府ヲ斃スヘキニ決シタリ太閤ノ洪恩忘レナクンハ偏ニ一味希フナリ秀
頼へ忠節盡サルニ於テハ望次第何方ニテモ二ケ國ノ領知必周旋スヘキト誓言イタシケレハ忠興我
カ不肖ヲ棄ス斯ル一大事ヲ依頼セラゝル事満足之ニ過ス 此上ハ一味致スヘキナリサテ内府ヲ討
ツヘキ方略ハ如何ト問ケレハ三成斯ル時ノ為ト存シ太閤在世ノ内ヨリ内府ノ邸ヲ纒ヒ此方一味ノ軰
ノミ比隣セシメタリ 乃チ今夜々討ニ究メ其手立ニハ宮部善祥坊・福原右馬助カ邸第高ミナリ此等
ノ處ヨリ齊シク火箭ヲ射カケ焼立ル程ナラハ必ス辟易シテ避出ン其時井摟ヨリ悉ク鉄炮二テ討取ル
ヘシ彼僅二千ノ人數ト聞スレハタトヒ逃ル者アリ共味方ノ多兵ヲ以テ之ヲ鏖ニスヘシ足下ニモ出兵
セラルへシ何ノ手間モ入マシモ合点ナキ躰ニモテナシ否左様ノ事ニテハ成リカタシ火箭ヲ放ツハ地
ノ高下ヲ論セス 内府ノ方ニモ塀裏ニ走リ矢倉ナトヲ附ケ火箭ノ備モ兼テ有ルヘシ其上近邊諸将ノ
方ヘハ常ニ間諜入置トノ事ナレハ今夜ノ巧ミモ疾ク知レテ此方ヨリ火矢ヲ十發射出ス時彼方ヨリハ
百發モ射懸ヘシ 然ラハ敵ノ屋敷ヨリモ味方ノ屋敷早ク焼立ラルヘシ 内府ハ數度武名ヲ著シタル
老功ノ勇士多ケレハ二千ノ人數心ヲ一ニシテ突テ出必死ノ働ヲナサハ輙クハ討得難シ 其内彼ニ
親シキ諸大名聞付テ馳来ラハ却テ味方敗北セン事疑ナシ 假令一應勝利ヲ得ル共怯弱ノ巧ミナト
ゝ後日嘲ヲ受ンモ口惜キ次第ナリ去ナカラ夫程マテ思ヒ定メラレシ事ナレハ爰ニ一策アリ先ツ今夜
ノ先鋒我等ニ委任セラレナハ無ニ無三ニ切入ルヘシ其上ニテ各ハニノ目ヲトラルへシ 左アラハ内
府ヲ討取ル事アルヘシ假令忠興敗死ス共潔キ英名ハ後代ニ残ルヘシト申述ケレハ三成之ヲ聴カス
是非々々焼立ント申ケレ共忠興同意セス互ニ諍論シケル故越中殿ノ如ク氣セキテハ如何ナリ殊ニ
時刻モ移リタリ旁今夜ハ延引然ルヘシトテ各退散シケリ 小西行長此次第ヲ聞テサテ々々口惜キ
事ナリ五奉行等世事ニハカシコケレ共軍事ニハ拙ナキ越中ニ誆誘セラレ最早内府ヲ討ン事思ヒモ
寄ラスト頭ヲ掻テ悔ケルトナリ 忠興其夜父幽齋ヲ以テ事ノ由ヲ告ケ向嶋へ立退ルへシト申向ケレ
共内府答テ彼等何程ノ事仕出スヘキト申サレケリ 翌日忠興自カラ至リテ右ノ次第詳ニ物語シテ
早々向嶋へ立退キ然ルヘキ由促シケレハ内府大ニ愕キ箇様ノ計ラヒナクハ乍チ命ヲ隕スヘキトテ
急ニ向嶋へ立退カレケル
娘婿の祖父にあたる人が亡くなった。正式には祖母の連れ合いである。喪主であるこの祖母殿は、娘婿の母親の実姉というややこしい関係である。つまり姉が妹を養女にしているわけである。祖父なる人は多彩な病歴を持ち、ガンを患っての生涯であったが享年82歳であったから、祖母殿にいわせると、「よう長生きした、天寿じゃ」ということになる。二三度しかお目にかかっていなかったが、お通夜・お葬式に参列した。お通夜の席で一言お悔やみをと思い声を懸けると、速射砲の如きおしゃべりが始まった。ご亭主の病歴から臨終までが時系列で詳細に、それも口を挟む間もないほどの速さで語られる。娘からきいていた「おしゃべりおばあちゃん」が喪主殿で有ることを忘れていた。和室の式場で膝が悪い喪主殿は椅子に腰掛けていたが、妻の「お膝がご不自由のようで」の一言を聞くや否や、今度は主題がそちらに移りとうとうとその予防策についての講義が始まった。まわりの人たちは、喪主殿のおしゃべりについてはとっくにご承知らしく、時折被害者たる我々の方を眺めてくる。お気の毒にといった感じである。一歳二ヶ月の孫(祖母殿から玄孫)が会場を走り回り、参列者に体当たりしていく。笑い声が上がり祖母殿の話が一瞬途切れた。ここぞとばかりに挨拶をして席を離れた。孫の頭をなぜたのは、さよならの挨拶と共に感謝の気持ちを添えてである。祖母殿は二つ三つ作られている話の輪から取り残されて、淋しい喪主の顔に戻っていた。