津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

梅原丹七・福地平右衛門一件畧記 ・・ 3

2010-03-01 18:04:03 | 歴史
一、同年四月十七日阿部豊前守殿より田中主殿頭殿江長岡
   式部・長岡勘解由儀御用有之候間召連翌十八日
   辰之刻御登城候様松平阿波守江も御一同御登城
   被成候様主殿頭殿を以被 仰渡候段主殿頭殿より式部
   勘解由江被 仰下候而御屋敷如何可と仰付哉と何も
   気を詰罷在候由若異被仰出も御座候ハゝ
   綱利様を兼而内決之通高野山江奉入覚悟

   ニ而式部・勘解由供之者も旅行之用意仕せ左候へて
   翌十八日阿波守殿・主殿頭殿御両人式部・勘解由被
   召連登城仕候處井伊掃部頭殿・酒井讃岐守殿・松
   平伊豆守殿・堀田加賀守殿・阿部豊後守殿御列座ニ而
   讃岐守殿式部・勘解由ニ 細川様御遺領無相違
   被為葉遺領旨委細上意之趣被 仰せ渡候ニ付定而
   山川海共に万事如先規被為葉遺領ニ而可有之哉と
   両人口揃申上候處其通との御事ニ扨々難有
   仕合奉存候と御請申上候 上意之趣事長候事ニ付

   若相違も有之義刻於殿中式部相調阿波守殿
   主殿頭殿江懸御目候處無相違由被仰渡者御大切之
   御様子段々五座候へとも首尾好相済申候此外委細
   之儀省略仕候式部勘解由江讃岐守殿江 仰渡候
   上意之趣熊本江申越候式部自筆之書付
     慶安二年四月十七日阿部對馬守様より田中主殿頭様
     を以仰下候者長岡式部・沼田勘解由左衛門両人明
     辰之刻ニ主殿頭ニ召連御城江可罷出之旨被仰
     聞候松平阿波守殿も主殿頭を以被仰せ渡之由御座候

     依之式部少輔・勘解由左衛門十八日辰之刻主殿頭様
     御供仕御城江罷上候處井伊掃部頭様・酒井讃岐守
     様・堀田加賀守様・松平伊豆守様・阿部豊後守様
     御列座ニ而阿波守様も其座敷江被成御出式部少輔
     勘解由左衛門被召出為 上意讃岐守江仰渡候者
     肥後守儀被成御取立候ニ付き而御奉公をも可死覚悟と
     被 思召候処不慮に若年ニ而相果御不便ニ被 思召上候
     就夫跡目之御仕置早々可被 仰出候處依御違例
     只今被 仰出候肥後國之儀御手端其上大國之儀

     ニ付六(丸)事幼少ニ候条取替をも可被仰付候得とも
     三齋関ヶ原之時分奉對御當家一筋ニ忠節仕其
     以後 越中守御奉公仕度躰ニ被思召ニ付而被成
     御取立肥後國江被替候処無程相果て申し候扨又
        
     肥後守事若くといへとも御奉公をも可死者ト
     為及 御覧候故越中守跡職無相違被仰付弥以
     肥後守御奉公被と筋之者被思召就中相果候節之
     申置ニも代々御取立之儀御座候得共御奉公も不仕
     千万迷惑ニ奉存候然者幼少之忰共に跡式被仰付

     又候御奉公不仕様ニ御座候得者尚以迷惑至極奉存候
     条御國之儀者差上申し候忰両人御座候御奉公をも
     可し様ニ罷成候ハゝ至其砌被為叶 御覧候通被
     召仕被下候様ニと申上候代々ケ様之御奉公振殊ニ
     相果候刻御奉公之道をも忘却不仕子供之儀ニも
     無構御國差上申候段神妙可と思召上候依之
     六丸儀幼少ニ候得共肥後國無相違被 仰付候間
     奉得其■六丸幼少之事ニ候へ共此段具ニ可申置候
     実子無之候得者養子をも仕跡職し何角申事

     も御座候得共肥後守儀今度之申立候様御取立之
     肥後守ニそ尤と思召候ニ付き孤如斯被 仰出候条家来之
     者共も難有奉存候六御奉公をも仕候様随分
     守立可申候然上ハ諸事無油断相心得仕置等か
     申付候小笠原右近太夫儀者六之間■之事ニ候幸
     隣國ニ罷在候間折々肥後國江見舞候様ニと被仰付候
     間仕置等之儀談合仕度儀者相尋可致沙汰■
     其上六事御懇ニ被思召候条御目付をも可被
     進候間左様可相心得候旨被仰渡御座敷を罷立

     候得者被召返重而被仰せ聞候ハ六丸被召出候得共幼少
     之儀ニ候間両人被罷出被仰聞追付
     御目見も可被仰付之旨 上意之由被仰聞候
     右之通早速國許江申遣家来之者難有奉損候
     諸事精を入候様ニと被仰聞候右 上意之趣
     四月十八日殿中酒井讃岐守様被為仰聞候ニ付
     謹而承者仕御座敷罷立候左候而阿波守様并ニ
     主殿頭様御退去直ニ此奉上之御屋敷江被成御越
     此両所と稲葉能登守様と殿様御同道被成り掃部頭

     様・讃岐守様・加賀守様・伊豆守様・對馬守様ニ御礼被成
     御出式部少輔・勘解由左衛門も御供いたし参上候翌十九日之
     朝田中主殿頭様・曽我丹波守様同又右衛門様江御供仕先
     讃岐守様江致す伺公候処ニ御前ニ差出昨日之上意共
     難有可奉存由兼之御意被成候其上にて又被仰せ聞ニハ
     肥後守様縁邊之儀ハ越中守存生之時分被申上候者
     一筋ニ御奉公仕上度奉損候間肥後守縁者組之儀
     不被仰付候様ニと申上候ニつき烏丸殿息女被致祝言候
     然處彼息女死去二付肥後守代ニ成縁邊之御

     内證も難有之越中守如被申上肥後守も達而御断
     依之申上候縁者組不被申付候ケ様之儀も 上意
     被成候得共 上意多候故態ト讃岐守様被仰除候
     夫より伊豆守様江致伺出候處御懸ニ被仰昨日之
     上意之様子主殿頭守様・丹波守様ニ被成御物語
     此外何ニも不残御礼致伺出候右讃岐守様被仰聞候
     通私共如斯覚申候御口上之事長御座候つる間前
     後仕る事も可有の候へとも畢竟相違候儀ハ有
     御座候間敷候以上
        慶安三年巳     長岡勘解由左衛門
           四月十九日  長岡式部少輔

   斯被 仰出し趣松平阿波守様江も御同座ニ而聞召候ニ
   付而懸御目候処阿波守様聞召被届候処無相違由被仰
   聞候■ニ付讃岐守様江も御内證ニ而懸御目且畢竟
   相達者無之候乍去御口上之上意被仰渡候紙面ニ
   留置候段御届相違無之抔とは難被仰之間讃岐守様
   被成御覧候段者堅沙汰仕間敷旨被仰聞候以上
     但此書付堀平左衛門しらべより書置候由密書也
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梅原丹七・福地平右衛門一件畧記 ・・ 2

2010-03-01 10:58:14 | 歴史
  表題にある梅原丹七は本文中では 九兵衛 で登場する。只今つぶしに鋭意努力中

一、同(慶安)三年正月長岡興長於八代年頭之禮式相済候
   上出府仕居申候處旧臘
   光尚様於江戸御所労之処被為及御大切同(慶安二年十二月)廿六日
   被遊 御逝去之処ニ江戸より早打を以申越候処可気

   懸敷海陸共ニ隙取正月九日於熊本着仕候且又
   續助左衛門柘植勘平茂同日着仕候早速興長宅江
   監物初長岡式部米田左馬允御小姓頭御奉行等も
   何れも寄合先以江戸江早打を以差立候處又々早
   打着仕小笠原左近太夫殿より興長江御状を以此節
   急度江戸二可馳登旨被仰下候其子細ハ 綱利様
   御幼稚ニ被成御座肥後國之儀者西國筋ニ而も別而
   様子有之候其上酒井雅楽守殿兼而細川帯刀殿取
   立御縁被結度御内存之由にて今度 光尚様

   御遺領四拾万石 綱利様江被宛行拾四万石者帯刀殿江
   被下 綱利様御後見可と 仰付哉之様子に付
   興長儀者ケ様之節者御國ニ可罷在候間監物江戸江
   罷越可然旨申談候處 六丸様御登城可被遊
   節御供奉之者佐渡より外者有之間敷之由其上右近太夫殿
   よりご仰下趣有之候に付旁以佐渡参府可然由申候へ共
   承引不仕候ニ付何も一同ニ此節者佐渡罷越可然単残と
   達而申故得斗了簡仕其通にても可然哉と申間
   其節之■■そ不仕然處大坂町奉行曽我

   丹波守殿より興長江御状を以 光尚様御逝去ニ付
   而者佐渡儀急度参府可仕旨小笠原右近太夫殿より仰越候
   得共御聞届候ニ付能々可■■御了簡之処佐渡儀者
   此節必御國ニ罷在江戸には別人差出可然候段御國を
   出候とも途中より可罷返候其趣者丹波守殿より右近太夫殿
   江者委細被仰入之由仰越し候ニ付刻冬興長宅に
   何れも寄合重■申談候此節監物儀ハ持病差起候
   由に而罷出不申候丹波守殿御紙面之■ニ■興長儀ハ
   弥御國ニ罷在同姓式部寄之ニ長岡九兵衛相副急

   度江戸江罷越候様一■仕候御国中末々迄も何も批判仕
   至極危■候事甚気遣仕由始終之事は思慮
   仕寄之江密■を委細に申含メ寄之艮夜罷立申候
   都甲太兵衛儀者當時鉄炮頭に而武功有者に付
   今度寄之ニ差添江戸江罷越且又梅原九兵衛儀者
   柳生但馬守殿之御門弟剣術修練のもの故
   忠利様御代浪人分ニ而召出 光尚様江御附有馬
   御陳之節も能相働御使番ニ而江戸表之■を得斗
   承届九兵衛儀者益々酒井雅楽守殿江御入魂に而

   御出入仕候ニ付幸之儀ニ付興長存念之趣委細申含
   江戸二おいて雅楽守江興長密意の趣申上■御
   承引無之躰ニ候ハゝ彼御前ニ而切腹仕候様ニと申渡候
   奉得其意候此節之御奉公と奉存候間随分心合相
   勤可申様ニと申聞太兵衛九兵衛両人共式部九郎兵衛
   一同ニ江戸二差立申し候興長儀ハ御國万端手當仕江戸
   より之御左右相待居申候
   長岡興長より同寄之江密■之趣尚又寄之より梅原
   九兵衛へ持計申聞九兵衛儀酒井雅楽守殿江参花御

   直ニ申上候ハ今度肥後守病死仕 六丸儀ニ付き國元
   家老共御内々奉歎候儀御座候刻長岡式部と申者
   罷越申候其子細ハ 六丸幼少ニ付き何とやう肥後守
   跡式御減少可と仰付之趣風聞仕候弥其通にて
   御座候弥何とそ御取成■以先規無相違被為拝領候
   様奉願候儀御座候又細川帯刀奉江分知仕候様ニと
   可被仰付候様ニも相聞申候ケ様之儀實■ニ手御座候
   得共先祖 幽齋以来■受三齋儀者先年
   関原表之一乱ニ付度々御奉公も相勤御代々御

   應意被仰付相續越中守儀も右之労ニ付き肥後國
   一國被為拝領候處越中守肥後守共ニ短命ニ而御座候間
   可仕様無御座候今度分知等被仰付候者長岡佐渡を發
   家中の者共一圓ニ承■難仕候若被仰出候上ニ而何と
   應意を申上候様御座候へとも恐多奉損候儀之御内意
   申上候如前之一國ニ被為拝領候様ニ六丸守立奉公
   仕候様仕度奉存候此段私を以申上候■願之通難相
   ■趣ニ御座候ハゝ私ニ急度了簡仕候様と申付候段
   申上候處酒井雅楽守殿より仰候ハ其方了簡如何ニ

   仕候哉と有之時九兵衛懐釼を取出鞘半援出右之手
   にて持ち左之手にて雅楽守殿之御袖ニ可取付躰
   ニ手此如く仕候より外ニ了簡迚ハ無御座候と申候得者雅
   楽守殿やれ/\九兵衛かたくるしや肥後一國ニ可被
   為拝領いて■相済や國士■扨々かたましとて
   御笑を成候ニ付九兵衛押返し弥左様ニ御座候哉と
   申候得者何か扨其通可と仰付をと被仰時九兵衛飛
   下り謹而御請申上御厚情之段六丸成長之上難
   忘和奉役候家老共家中之者安心仕候段於
  
   私難有仕合奉役候段罷帰委細寄之申聞候段興長
   江申越候
  
  
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