細川家譜巻之三 細川忠興譜上
細川越中守源忠興ハ藤孝カ嫡男ナリ幼名ヲ熊千代ト穪ス 将軍足利義昭ノ命ニ依テ細川中務大輔
陸奥守 輝経ノ養子トナスへキ約アリ 然レ共父藤孝カ許ニテ成長シ後信長ニ勤仕ス 天正元年七
月義昭填島ニ籠城有テ信長ト合戦ノ時輝経モ籠城ノ處填島落城ニテ義昭落魄ノ節輝経モ共二牢浪
ノ身トナリシユヘ遂ニ其約ヲ果サス 天正五年二月雑賀ノ一揆泉州貝塚ノ城ニ楯籠ル時十五歳ニテ
藤孝ニ従テ初陳ス 是歳九月和州片岡ノ城ニ一揆ノ残黨共馳加テ楯籠リシ時藤孝ニ従テ出陳シ先
ニ進テ槍ヲ合セ敵ヲ突伏セ首ヲ取ル 十月藤孝明智光秀ト共ニ丹波平均トシテ出張シ亀山ノ城ヲ攻
ム 藤孝城主安村次郎右衛門ニ和議ヲ勧レ共聴カス 是ヲ攻ル事急ナル二及テ降ヲ乞フ 忠興其
遅滞ヲ憎ンテ是ヲ攻敗ラント請フ 光秀頻ニ諭シテ止ム 遂ニ克ツ六年正月去年片岡城攻ノ節忠興
若干ニテ無類ノ戦功有ケルヲ信長賞美シテ小姓ノ役トス 五月藤孝ニ従ヒ神吉民部大輔カ楯籠ル神
吉ノ城ヲ攻メ力戦シテ是ヲ降ス 九月藤孝ニ従ヒ丹波二出陳シ處々ヲ攻平ケ十月藤孝ト共二安土二
参観ス 以上貝塚城攻ヨリ此條マテ藤孝譜ニ詳ナリ
天正十年壬午六月惟任光秀本能寺ヲ圍テ信長ヲ弑ス 使ヲ遣ハシテ忠興父子ヲ招ケ共敢テ逆意ニ
與セス父子共ニ薙髪ス 此時ヨリ藤孝隠居シテ幽齋玄旨ト改ム 忠興家督相續ス 信長吊合戦ノタ
メ丹波國ニ攻入二ケ處ノ端城ヲ攻落シ羽柴秀吉ニ使ヲ馳テ光秀カ逆意ニ與セラルヨシ注進ス 攝州
神戸信孝并丹波秀勝ニモ飛脚ヲ立光秀ニ一味ナキ旨ヲ告ク 又同國ア萱谷城ニ光秀謀反ノ前ヨリ番
士ヲ置ケルヲ忠興不審ニ思ヒ有吉将監立言ニ人數ヲ添テ相番ニ差置キシカ叛逆ノヨシ聞へケレハ右
番士ヲ討取ルヘシト下知ス 立言押寄スルニ敵早引取タリ 此時忠興モ早速ニ出馬シ一色義有モ打
出忠興ニ随譜 一色家士等萱谷ノ町屋ニテ評議シケルハ此節忠興ヲ討テ光秀ニ便リ丹後國ヲ領スヘ
シト催シケレ共忠興ノ剛勇ニ恐レ時ヲ移ス内ニ萱谷ノ城落チ又光秀ヨリ書ヲ贈リ藤孝父子ヲ招ケ共同
意セス 彌義心ヲ堅クス松井康之ハ明智左馬助ニ書ヲ贈テ義絶ス 忠興ハ内室ニ向テ其方父光秀
ハ主ノ敵ナレハ同室叶フへカラストテ一色宗右衛門ト云牢人并小侍従此二人ヲ附テ丹波ノ内山中三
戸野ト云處へ惟任家ノ茶屋有シ二送リ遣ハス 一ニ丹後ノ内戸野 内室モ此上ハトテ髪ヲ切ル小侍従モ
同ク髪ヲ切ル 秀吉天下一統ノ後此事ヲ感シ今ハ苦シカルマシ呼返サレ然ルヘシトアリケンハ其旨
ニ随ヒス
羽柴秀吉ハ毛利家ト戦ヒ備中備後伯耆三ケ國ヲ受取テ和平ヲ調へ播州へ馬ヲ入ラレ松井康之へ書
ヲ贈り忠興カ忠義ヲ感シ且康之カ義志ヲ賞美ス 是康之ヨリ早速飛脚ヲ馳テ信長ノ變ヲ告シ故ナリ
サテ忠興ハ領内ノ變ヲ慮リ熊野郡佐野城ニ長岡権之助直次ヲ城代トシテ遣シ其邊ヲ鎮メケルニ舊主
佐野源五郎常次但馬國ニ牢浪シテ在シカ時ヲ得タリト立歸リ岩木外右衛門ヲ初メ多ク郷民ヲ募リテ
佐野城ニ夜討ヲ懸ル 権之助強ク防キ戦へ共衆寡不敵シテ竟ニ切腹ス 一揆蜂起ノ事宮津ニモ聞
ヘケル故米田宗堅ヲ應援トシテ遣ストイへ共敵早入替リケル間力ナク此由ヲ注進ス 依之長岡興元
及ヒ康之等ヲ差向米田是政有吉立行モ隊下ヲ率シテ城ヲ圍ム 敵門ヲ開キ突出ルヲ康之・志水清久
等相働キ一旦ニ攻落サンモ易ケレ共味方ノ死傷ヲ慮リ強クハ攻サリケリ 果シテ其夜城ヲ出テ北ケ
去ルヲ追撃シテ數多討取城ヲ取返シ其邊仕置ノ為ニ宗堅ヲ差置在處ノ悪徒ヲ誅ス 残黨尚但馬國
ニ北ケ隠ルゝ由聞へケレハ宗堅尋サカシテ七十餘人ヲ切殺シ岩木・佐野・井上等カ首ヲ獻ス 同國
奥山ニ矢野藤一郎ト云者アリ光秀ニ與シテ忠興ニ従ハス 立行忠興カ下知ヲ受テ隊下ヲ帥ヒ打向ヒ
藤一郎ヲ初メ是ヲ鏖シ丹後平均ス
六月十六日秀吉山崎表ニテ光秀ト一戦アリ 先是米田甚左衛門是澄 壱岐守・求政弟 幽齋・忠興ニ謁
シテ忠興父子光秀カ逆意ニ與セサル事ヲ秀吉ニ行テ告ン事ヲ乞フ 即之ヲ許シ直ニ三上兵蔵友田ヲ
添ヘテ秀吉ノ軍門ニ使タラシメ彌忠志ヲ盡サン事ヲ告テ怨敵退治ノ趣ヲ問フニ両人攝州茨木邊ニテ
秀吉ニ行逢斯ト申ケレハ秀吉早速其趣を聞届ケ感悦不斜秀吉聊カ隔意ナシ程ナク對面致スヘシトナ
リ是澄ハ友田ニ一刻モ早ク歸テ此旨言上スヘシ此表合戦危急ニ見ヘタリ拙者ハ所存コレアリ残リ留
テ秀吉ノ先手ニ加ハルヘシ此儀ヲモ宜ク言上スヘシト申含メ何卒先陳ニ加ハリ度旨秀吉ニ願へトモ
免シ無キヲ頻リニ願ヒ先手ニ加ハル サテ合戦初ル時光秀ノ先陳ニ緋威ノ鎧ヲ着茜ノ吹貫ヲ差シ渡
邊美濃介藤家ト云者ニ是澄名乗合ヒ互ニ引組差違テ死ス 秀吉ハ是澄討死スト聞キ彼者先手ニ加
ハリ度由望シ時ハヤ戦死ノ機見ヘタリ忠興父子ノ真實ヲ米田カ顯レタリ惜キ者カナト申サレケル
惟任方ノ軍敗レ光秀生害ス 秀吉兵ヲ収メ十八日尾州清須ニ於テ北畠・神戸・柴田・池田・惟住等ノ
面々會議有テ信忠ノ子息阿三 時ニ三歳 ニ家ヲ継セ各領地割アリ 此時ヨリ羽柴・柴田ノ両家不快ヲ
挟ム
七月十一日秀吉丹後へ使者ヲ以テ藤孝・忠興へ誓書并丹後安堵ノ證書到来康之ニモ加禄ノ内三歩
一ノ領地ヲ與フヘキヨシ證書アリ
八月忠興上洛シテ秀吉ニ對顔シ安土ニ徃キ幼主ニ拝禮シ北畠信雄ニモ對面ス 其後神戸信孝ニ對
面ノタメ岐阜ニ赴ク 既ニ城下マテ至ル頃秀吉ヨリ密状来ル即刻引返シ歸國ス
【一色義有の謀殺】
一色義有 忠興妹聟
忠興留守ヲ窺ヒ宮津ノ城ヲ取ント欲シテ既ニ兵舩ヲ押出スノ處忠興歸國ノ様子ヲ聞キ弓木へ引返ス
忠興既ニ歸城シ義有ヲ攻討ヘキ催シナリシ二義有和議ヲ乞ヒケレハ幽齋取扱テ暫無事ニ相整ヒ忠
興弓木城ニ往ク 然れ共遂ニハ討果スヘキ内存アリ 九月八日忠興ノ招ニ應シ義有宮津ニ来ル 尤
用心ト見ヘテ騎士三十六人雑兵三百計リヲ従フ 書院着座ノ次第ハ忠興ト義有向合ヒ義有カ家老日
置主殿介ハ忠興ノ右ノ脇ニ座ス 後口ノ襖障子一重内ニ仕手ノ士十七人隠シ置ク 興元・康之・立行・
是政等は田邊城ノ普請場へ遣シ置キ義有ヲ討果サハ火ノ手ヲ揚ルヘシ夫ヲ相圖ニ一色カ居城弓木
ヲ攻取ルヘシト手配ス サテ右ノ座席ニ忠興腰物ヲ中島甚之允持出置タリシカ柄ノ勝手悪カリシヲ米
田宗堅肴ヲ持出ル時態ト袴ノ裾を腰物ニ障ラセ取テ戴ク時少シ鞘ハシリタルユヘ押込ミシヲ忠興勝手
ヨキヤフニ取直シ饗宴ノ時義有盃ヲ取リ戴ク處ヲ忠興抜打ニ肩先ヨリ一刀二切リ殺ス 主殿介ハ之ヲ
見テ逃出ヲ中路市之允討留ル 従士此音ヲ聞テ初テ切込ントスルヲ仕手ノ面々早廣間ニ至テ切立ル
敵モ烈シク相働ク中ニモ芦屋金八郎・金川與蔵ト云者尤奮戦シケレ共取コメテ討取ル 米田宗堅ハ
三人ヲ切リ一人ヲ生捕ル 其餘的場甚右衛門・山本三四郎・可児清左衛門等思ヒ々々ニ相働テ切伏
スル 忠興モ庭ニ出テ下知スル處ニ日置主殿カ弟小左衛門ト外ニ一人忠興ニ切テ懸ル 時ニ丸山左馬
助長刀ヲハシラカシ丸山左馬助是ニアリト云フテ縁ニジダンダヲ踏ム 此勢日ニテ二人切込マサリシ二ヤ名誉ノ男ナリト後ニ忠興申
ケルナリ 忠興長刀ニテセリ合シカ遂ニ小左衛門ヲカケ倒ス
昨日は全国的に随分荒れたようですねー。桜もまだ満開に至ってはいませんから、散り落ちるということは有りませんが・・今日はお天気も良く熊本城などはお花見客で賑う事でしょう。近所の桜を写真に収めようと外に出ましたら、お若いお嬢さんに出会いました。まさにモジリア二のキャンバスから抜け出てきたような美人で、こちらにカメラを向けようかと思ったくらいです。
モジリアニの絵のような人春の風 津々
一陣の春の風が吹き抜けました。
モジリアニの絵のような人春の風 津々
一陣の春の風が吹き抜けました。