この記事は「井田衍義」の「明和繁雑帳--會所舊記廿四・廿五」の「八三二」によるものである。
筒口御屋敷垣廻并御門前造之事
此儀、前々は御掃除方受ニて御座候由、以前竹木縄等の類相拂候儀も無御座候、然處清記様御屋敷ニ相成候以後、池田手永より受持、毎歳暮ニ至千六七百人之夫仕、竹木縄等餘計の入方ニて、両手永殊之外迷惑仕候ニ付、依願去寅ノ歳より飽田四手永受ニ被仰付候得共、飽田之儀は御本丸・御花畑門松・其外御蔵米取衆願之門松等追年相増、夫役差つかひ、其上右御屋敷御役人衆色々差圖高二有之、小頭共取計も不在心、竹木之費も御座候様子ニ相聞申候、夫ニ付竹木等之儀は御達を請、飽田より御山取仕御屋敷え相拂可申候間、垣廻仕直等之儀は、何卒御掃除方受ニ被仰付被下度奉存候、道造之儀は在中より受持申ニて可有御座候、併彼邊土取場一向無御座、御百姓抱地之内より土を買道造仕候間、土之儀は御作事御用横手原之土場より被渡下候様有御座度奉存候
〔上ノ付札〕
此儀、御掃除方受ニ被仰付候段、去ル卯二月御達有之候、且又土之儀は金ケ淵灰石屑を取
道造仕候様被仰付候事
ここに登場する「清記様」とは、細川宗孝・重賢の弟・紀休のことである。清紀は寛保三年、「桜ノ定紋ヲ用セシメ、長岡氏ヲ称セシム」と宗孝記にある。
長岡紀休
称細川、伊三郎、紀豊、織部、清紀、改長岡
享保八年癸卯十一月十一日江戸ニ生ル、寛保三年癸亥六月七日病ノタメ下国、飽田郡筒口村別荘
二入ル、天明七年丁未九月廿二日筒口邸二テ卒ス、年六十五、法号浄観院智海宗眞、妙解寺ニ葬ル
この筒口御屋敷とは後の「北岡邸(現在の北岡自然公園)」のことであろう。現在はその跡を留めないが、「金淵」と呼ばれた場所は数百メートルのところである。
筒口御屋敷垣廻并御門前造之事
此儀、前々は御掃除方受ニて御座候由、以前竹木縄等の類相拂候儀も無御座候、然處清記様御屋敷ニ相成候以後、池田手永より受持、毎歳暮ニ至千六七百人之夫仕、竹木縄等餘計の入方ニて、両手永殊之外迷惑仕候ニ付、依願去寅ノ歳より飽田四手永受ニ被仰付候得共、飽田之儀は御本丸・御花畑門松・其外御蔵米取衆願之門松等追年相増、夫役差つかひ、其上右御屋敷御役人衆色々差圖高二有之、小頭共取計も不在心、竹木之費も御座候様子ニ相聞申候、夫ニ付竹木等之儀は御達を請、飽田より御山取仕御屋敷え相拂可申候間、垣廻仕直等之儀は、何卒御掃除方受ニ被仰付被下度奉存候、道造之儀は在中より受持申ニて可有御座候、併彼邊土取場一向無御座、御百姓抱地之内より土を買道造仕候間、土之儀は御作事御用横手原之土場より被渡下候様有御座度奉存候
〔上ノ付札〕
此儀、御掃除方受ニ被仰付候段、去ル卯二月御達有之候、且又土之儀は金ケ淵灰石屑を取
道造仕候様被仰付候事
ここに登場する「清記様」とは、細川宗孝・重賢の弟・紀休のことである。清紀は寛保三年、「桜ノ定紋ヲ用セシメ、長岡氏ヲ称セシム」と宗孝記にある。
長岡紀休
称細川、伊三郎、紀豊、織部、清紀、改長岡
享保八年癸卯十一月十一日江戸ニ生ル、寛保三年癸亥六月七日病ノタメ下国、飽田郡筒口村別荘
二入ル、天明七年丁未九月廿二日筒口邸二テ卒ス、年六十五、法号浄観院智海宗眞、妙解寺ニ葬ル
この筒口御屋敷とは後の「北岡邸(現在の北岡自然公園)」のことであろう。現在はその跡を留めないが、「金淵」と呼ばれた場所は数百メートルのところである。