津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本の宇喜田家

2010-08-15 20:57:57 | 歴史
 七月の「熊本史談会」の例会で、いつも講師をお願いしているS氏から、宇喜田氏のご子孫が熊本に居られるという話を伺った。浮田というお宅があることは承知していたが、どうやらこの方の事らしい。
いろいろぐぐっていたら、「閑人贅言」というサイトに行き付き、その中に次のような「会報」が発行されていることを知った。ここに浮田尚家氏の「熊本宇喜多家?のルーツを探る」という論考が掲載されているらしい。ぜひとも手に入れて拝読したいと思っている。

『宇喜多家史談会会報』第35号(2010年7月)
      ・大西泰正「これからの宇喜多氏研究のために」
      ・矢吹壽年氏「関ヶ原後日譚」
      ・浮田尚家氏「熊本宇喜多家?のルーツを探る」
      ・岡田昌也氏「史料紹介」(三~六)
      ・山重十五郎氏「物語直家記伝」(七)
      ・石渡隆純氏「宇喜多直家公の墓」
      ・無料公開講座と宇喜多フェスのご案内
      ・編集後記
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消息いろいろ・・(了)

2010-08-15 08:36:35 | 歴史
【九五一】
一、小笠原美濃殿御家老職被仰付、平野九郎右衛門殿御中老職被仰付候段(文政七年)九月十一
   日御達之事

【九五六】
一、三淵永次郎殿儀病気ニ付依願御役儀披遊御免、座席御格之通御留守居大頭同列被仰付候、此
   段觸支配方へも相知可申旨御用番被申聞候條、左様御心得、御支配へも可被相知候、以上
       (文政八酉年)三月三日             御奉行中

【九五六】 抜粋
一、御留守中御城代長岡内膳殿被仰付候、(三月七日)御達之事
一、溝口蔵人殿儀、御中老職被仰付候段三月十五日御達之事

 文政八年は参勤の年であるが、齊樹は健康がすぐれず春の頃から出立が再三にわたり引き伸ばされてきた。秋に至り漸く出立、十二月二日江戸着く。七日の夜から発熱、疱瘡であると見立てられた。廿一日には酒湯にはいるなど快方ニ向かうかと思われたが、その後「不軽容躰」となる。
【九六八】 抜粋
一、太守様御所労御療養不被為叶、去ル(二月)十二日被遊御逝去候段御到来有之、奉恐入候、依
   之諸事穏便可被相心得候、此段觸支配方へも可被相觸候、尤此觸状可有判形候、以上
      二月廿三日                  奉行所

【九七七】
一、殿様(齊護)先月(三月)廿九日御用番水野出羽守様於御宅、諦観院様(齊樹)遊御願置通御
   養子被仰付、御遺領御相續被仰出旨被仰渡候段御到来有之、奉恐悦候、依之即日より太守様と
   奉穪候、此段為被奉承知申達候條、觸支配方えも可被達候、以上
      四月十二日                  奉行所

【九八〇】
一、太守様去ル四日依召細川熊之允殿(齊護実弟・行芬)名代細川喜十郎様御同道、御登城被遊候
   處、只今迄太守様え御内分(宇土支藩三万石)之通熊之允殿え相續被仰付旨、御用番青山下野
   守様被仰渡候由申来候、此段為承知申達候、觸支配方えも知せ置可申旨御用番被申聞候條、以
   下例文
      四月廿四日                  御奉行中

【九八二】 抜粋
一、平野九郎右衛門病気ニ付御役御免、御留守居大頭同列被仰付、朽木内匠殿御中老職被仰付候段、
   四月廿八日御奉行達

【九八六】 抜粋
一、太守様去ル九日就御元服御歓勤之儀、別紙書付之通可及達由従御小姓頭申来候間、寫之差廻
   候條、左様可被相心得候、以上
      五月廿五日                  御奉行中
                 (以下略)
 齊護は文化元年九月十六日生まれ、遺領相続時は二十二歳である。ちなみに宇土支藩を相続した行芬は七つ年下である。

【一〇二三】
一、溝口蔵人殿依願御役御免、御留守居大頭同列被仰付、郡九郎太郎殿御中老被仰付旨、八月九日
   御達

【一〇三一】 抜粋
一、服部太門願之通御役御免之御達、十二月七日
一、杉浦仁一郎御奉行本役被仰付候段、十二月廿一日御達
 齊樹の死去後、江戸藩邸に於いては一橋家(室・蓮性院の実家)からの養子受け入れが検討されたようだ。熊本に在った齊茲の意向により齊護を養子とすることが決められ、杉浦仁一郎が僅か八日で江戸へ登り江戸藩邸にその旨が伝えられた。血脈の相続がなされた一番の功臣と称えられた。

【一〇三二】 抜粋
一、細川楽眞老(文政九年)正月十五日死去ニ付、今日一日御穏便之段、二月十一日御達
 宇土細川家七代立禮(本家相続・齊茲)の同母弟・孝應の事である。兄・立禮が本家を相続したあと、宇土支藩を相続した幼い立之(四歳)の後見役を勤めた。

                          (了)
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年六月(3)

2010-08-15 08:35:53 | 歴史
     ■六月六日 晴天 当番浅山清右衛門尉

一、浅山清右衛門御召ニ付、万御談合候て、終日長間ニ相詰申候

一、伊賀殿米之儀、又左衛門所へ尋ニ遣飛脚、未之刻ニ罷帰候


     ■六月七日 晴天 当番(仁保)次太夫

一、善光寺・宇佐両所之御茶屋御作事之事

一、山奉行衆ニ在〃竹子、時分候間、被見廻候へと、申渡事

一、御船大工林太郎左衛門と、中津ノ御船大工善右衛門と借米之出入、下候て、噯候て相済候由
   ニて、噯申候者之書物持参候を見届、書物戻し申候也

   一楽之返事ヲうつし候て、遣候也
一、御かき鑓のかきの直段、一楽より返事ニ、京ノおいのをうと申かぢハ、弐十目宛仕候、それニ
   付、米壱石と書付上候ヲ、八斗ほと候貸米遣候と覚候由、被申越候也

一、御馬屋衆七人不足之事

一、御中間抱候て、上方へ上せ候事

   六月九日ニ、米銀之切手調、遣候、小源五二渡候事
一、狩野是斎子へ、大学へ御銀子五枚被遣候事、御米も十九石弐斗被遣候事
 狩野家は祖母の実家である。この資料によると、初代是斎(太郎右衛門)に小源五なる男子があったことが判る。太郎右衛門は寛永十六年正月に死去しているが、外孫の同名・太郎右衛門(松山次郎太夫男)が家督している。小源五は死去したものと考えられる。我先祖につながる新しい発見である。

     ■六月八日 晴天 当番小篠次太夫

一、矢野少右衛門、未刻ニ出船仕候、■是二ハ言上迄ニて、奉行衆へノ状ハ不遣候也

一、大叓之覚書之儀ニ付、今日も終日御年寄衆御長間御詰候
 この「大叓之覚書」とは何だろうといろいろ調べているが、まったく判らないでいる。

一、中川四左衛門罷下候付、被成下 御書、御茶拝領仕候事

   御舟加子四拾人、六月十日ニ、中津へ遣申候事
一、中津より、小御上様(三齋妾)御煩ニ付、御医師之御用ニ、御加子之儀申来ルり(ママ)、民ア殿
  (小笠原長元)二て返事仕候、御飛脚亥之刻ニ戻し申候

     ■六月九日 晴天 当番浅山清右衛門

   中津公所之浦加子、六人被申付候へと、栗少介・杉與九郎へ、同前申渡候事
一、中津より上方へ、小早被差上候ニ、御加子六人御やとい被成度之由、式ア殿(松井興長)まて、
   中津六人之御留守居衆より被申越候ニ付、式ア殿より、六月十日之夜八つ時ニ、次太夫所迄
   承候事

一、(国遠)道倫小姓(ママ)

     ■六月十日 晴天 当番仁保太兵衛

一、長崎へ之御使ニ、返事調、相渡、明十一日之未明、可参由申渡事

一、式ア殿、中津より、夜前御戻候由事


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