春日局の実兄・斎藤利宗である。細川家とは春日局とともに懇ろの関係が見え隠れしている。故に綿考輯録に於いても、詳しく紹介されている。天正十七年立本は罪を得て細川家に預けられる。
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今年(天正十七年)斎藤伊豆公義の囚人と成、忠興君御預り被成候て、河北石見に御預ケ被成候処、無程御免ニ而加藤清正江被下候、伊豆ハ明智光秀の家人斎藤内蔵助か子なる故、秀吉公をねらひ鉄炮にて打可申と謀候由、秀吉公の御馬廻に伊豆か甥有之候而密訴いたし候ニ付、早速伊豆を召籠られ、御穿鑿有之候、伊豆申候ハ、父にて候内蔵介明智殿への届けに君へ御敵仕殺され候、私儀何とて御懇可申上様無之候、彼者浪人の私を失、御褒美にも預り可申と拙き底意より、現在の伯父に無実を申かけ、無是非仕合ニ候と申、双方証拠なき事故分明ならす、先忠興君へ御預け被成候、依之忠興君の仰を蒙り、河北石見方にさし置候、此比の風俗にて公義よりの御預ケ人と云なから召籠置、張番等附置候儀も無之由、石見申候ハ、貴方仮令逐電めされたりとも、上よりの御尋ものニ候ヘハ、日本の内に隠れ所は有ましく候、卒爾に逃隠れ、我等に皺腹切せ候様には努々いさるましく候、自然気違ひ如何様の事故とも其時迄と存候間、寛々と居られ、用事は遠慮なく被申聞候へと、殊の外深切にいたし候置、扨或日北野にて双方共鉄火を取せ、邪正御糾明有へきに究り候ニよつて、其前日石見、伊豆を同道ニ而北野の天神の天神に立願のため参候処、石見平生の真信私なき故にや奇瑞なと有之候と也、翌日双方出合、役人も数多被指出、其外見物夥敷中ニ而長サ四寸程之鉄を焼、かなはさみにて挟ミ差出候を、一番に伊豆罷出、両手の上に紙一帖敷き、熊野の牛王を一枚置、右の鉄火を受て向の棚に直し、手を引と其儘牛王紙青竹の棚焼貫、鉄大地に落し也、其跡に相手の者罷出、件の様子を見て早顔色変し、如以前牛王を掌に置、鉄火を受ると其儘牛王焼貫て、鉄火を地に落しけれハ、役人其者をとらへ忽磔にかけられ候、伊豆は御赦免にて清正へ被下、追々取立られ士大将ニ成候、松井・有吉木付籠城候時之書通ニ立本斎と有之ハ、此斎藤伊豆守事なり、肥後守忠広領国被召上候以後、将軍家光公ニ被召出御取立被成候、斎藤佐渡守と被改候、忠利君とハ御再従弟也 忠利君之譜寛永十三年之所詳に出
考ニ、天正十七年十一月五日、肥後天草ニ而木山弾正と合戦の時、清正旗本備の内ニ斉藤立本と有、清正へ被下た
る事夏秋の間たるへし
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ウイキペディア・斎藤利宗 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E5%AE%97
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