江戸の紀行文―泰平の世の旅人たち (中公新書) | |
板坂耀子 | |
中央公論新社 |
内容(「BOOK」データベースより)
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
1946年(昭和21年)、大分県に生まれる。九州大学文学部、同大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。熊本短期大学講師、愛知県立短期大学講師、助教授、福岡教育大学助教授、教授を経て、福岡教育大学名誉教授。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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板坂耀子 | |
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「しかられて次の間へ出る寒さ哉」という句がある。支孝の句だがつくづくうまいなーと想ってしまう。
昭和26、7年頃我が家の冬の暖房器具といえば、紺色の釉薬がかかった直系二尺五寸ほどの火鉢一つだった。あるものをすべて着こんで(?)着膨れして、家族四人火鉢に手をかざした。あるとき私は母から叱られ、祖母と二人寝る次の間(六畳)に逃げ込んだ。古い机の前に何することなくふてくされて座り込んでいたが、何しろ寒い。押入れを開けて「かいまき」を取り出して覆い被る。
何方かのエッセイに、「時代劇で江戸っ子が関西風の四角い夜具を着ているのはおかしい。江戸では寒いから『かいまき』を着て寝た」と書かれていた。ご尤もなお説と感心したものだが、TVにしろ映画にしろそこまでの時代考証をしたものはお目に懸からない。
■掻巻 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%BB%E5%B7%BB
昭和19年、祖父母と父が相次いで病没し、母は幼い子供二人の手を引いて熊本へ帰ってきた。我が家の「かいまき」も一緒に帰熊したものである。随分分厚く綿が入れられ、どんなに寒い冬でもこの「かいまき」にもぐり込めば天国だった。昭和28年の大水害で流失してしまった。
隣の部屋では祖母、母、姉がラジオに聞き入っているらしく話し声も無い。十分か十五分かたった頃、淋しさに根負けして私はもぞもぞ始めたのだろう、祖母が「風邪引くよ、こっちにおいで」と声をかけてくれた。すぐ出て行くのもしゃくだから少々間を置いて、「かいまき」を脱ぎ捨てて襖を開ける。祖母が「お母さんに謝りなさい」という。「ごめんなさい」と母に声をかけるが、母は顔を上げようともしない。姉が一言「バカ・・」と声を懸ける。祖母が何かとりなしてくれて一件落着したのだと思うが、原因が何であったのか覚えていない。小学校四五年生頃の苦い思い出である。
わずか十七文字に、支孝の句は全くの私の心境を表している。(実は芭蕉の死の直前の句らしく、シュチュレーションは全く違う)
老いてますます涙腺が緩んできた昨今、涙をさそう一句である。
■各務支孝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%8B%99%E6%94%AF%E8%80%83