津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ビートたけしはお嫌いですか・・・

2011-10-13 21:24:39 | 徒然

        たけしアート☆ビート これまでの放送   http://www.nhk.or.jp/takeshi-art/backnumber.html  

      見逃したものが多く、再々放送が無いものかと切に願っています。一流の人たちのお話には引きこまれますね~

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 BSプレミアム 10月19日(水) 午後9時00分~9時58分
                 たけしアート☆ビート「沖縄アートスペシャル(1)<名嘉睦稔・照屋林賢>」

豊麗で多彩な沖縄アートスペシャル1!生命力あふれる版画家・名嘉睦稔と、地元で活躍する音楽家・照屋林賢(りんけんバンド)を通して沖縄アートの神髄にたけしが迫る!

 

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NHK BSプレミアム

2011-10-13 09:23:35 | memo

                       2011年10月20日(木)  20時00分~20時58分

              BS歴史館 シリーズ 激論!戦国の真実(1)「織田信長・本能寺の変の謎」

                          http://www.nhk.or.jp/bs/t_history/

戦国最大のミステリー・本能寺の変。信長を明智光秀が討った動機は何か?単独犯説、黒幕説など入り乱れるなか、専門家たちが徹底討論!明らかになる戦国の驚きの姿とは?

番組内容

戦国最大のミステリー「本能寺の変」。犯行は明智光秀によるものだが、動機の謎が、さまざまな臆測を呼んでいる。光秀の怨恨説、天下取りの野望説から、朝廷や足利将軍などの黒幕説まで。なぜ、これほど多くの説が錯そうするのか? 専門家たちの徹底討論から見えてくる、戦国の驚きの姿とは? 2011年に明らかになった、改ざんされた信長肖像と、それを命じた意外な人物とは? 本能寺の変を追究すると戦国の常識が変わる!?

出演者

  • 出演
  • 渡辺真理,黒鉄ヒロシ,磯田道史,藤田達生
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郡宗保は死んでいなかった・・?

2011-10-13 08:24:58 | 歴史

綿考輯録に於いて郡宗保がよく取り上げられているのは、細川忠興の妾・松丸殿(松井興長室・古保の生母)の父であるが故だろうか。(幽齋の長兄・藤英の孫藤利の室も宗保の末娘である。)

通説としては大坂の陣に於いて、秀頼に殉じたとされる。このことは「おきく物語」でも記されており間違いのないところであろう。
                   お菊物語   http://www.enkoji.jp/okiku/0100.html
松山市(伊予)湊町にある圓光寺は、「豊臣秀頼の臣、郡主馬頭良列が、元和元年大阪落城の時に嫡男信隆に僧になれと遺言し、信隆はこれに従って城を脱出し、剃髪して僧となり清念と称しこの庵に来住した。そして慶安2年にこの寺を創営した」とされる。


綿考輯録は次のように記している。

   ・五月十八日忠興書状・別紙
           郡主馬宗保合戦之節(イ刻)秀頼様御馬印を持候て、御城より十丁も出候由、もはや総敗軍ニ成候付而
           御城江持て帰候由申候、此生死も不知候

   ・五月廿四日書状
           郡主馬ハ秀頼様之御そはえ可参とて、千帖敷まてはいり候へ共、たて出しニ付、無是非千帖敷ニて腹を
           きり被申候事
            (中略)
           急度申遣候・・・・・我々領分浦々嶋々ニ舟を逗留させ、何へんも相改可申候、主馬ニかきらす落人於有之
           は、急度搦捕可申候、返々つねニ人のかヽらさる嶋々まて、念を入相改可候、不可有油断候、恐々謹言

この記事について小野武次郎は、「右五月廿四日之御書ニ而郡主馬切腹之事慥ニ候」と書いている。しかしながら(中略)以降の文章「主馬ニかきらす落人・・・」にひっかかるものがある。そして武次郎は「然ニ・・」と不思議なことをしるしている。

           或人の覚書ニ、郡主馬良列事、世挙て大坂ニ而没すと思へり、案するに肯て不没、晦迹すと見へたり、其
           故は三斎公八代御入城の后、奉訪公八代ニ来り泰松院ニ滞留 年月不分明 於彼院連歌
                      言の葉をきヽにききょうの花のもと    良列
                        旅のやとりを何所にかるかや  住持大淵
           又或夜府外ニ逍遥し、古閑村虚空蔵堂に遊ふ、公以使者賜物あり、且短冊を送らる 宝物として今ニ存す
                      なくさミに御出の里の名をとへは
                        爰元一のこくうざうとや
           其後を不知と云々 右なくさミにの歌は、清厳和尚八代ニ下られ候時の御狂歌とて、御返歌共ニ閑斎筆記
           ニも有、附録ニ出す可見合、又主馬実名ハ宗保と云、良列ともいひたるにや、此説好事の人の偽作なるへ
           き歟、又難波戦記・実録大全ニ、五月七日大阪落城の日、郡主馬烈しく働、後ニ秀頼公の御前ニ出申上候
           ハ、腹切て御先仕、死出の御先陳、御旗奉行道案内可申とて御免を蒙り、板椽ニ伺候して家人黒木平左衛
           門を呼て、汝は此切腹の小サ刀と此封文を細川越中守忠興に慥に届へしとて、是ハ年来の旧友故如此状
           の内に辞世の一首あり。
              流れ行身ハ捨小船しつむ共跡ふきかへせ芦のうら風
              此歌の心ハ、身ハ如此なれとも、一子帯刀事松若様をいさなひ奉る、此儀を心に祝して再ひ難波の芦
              の浦風とよみたる也、尤哀なり、細川と別して入魂ゆへ菩提をも奉頼との事を書きたり
              宗保ハ礼義正敷人ニ而、御目通り椽の上ハ恐有とて、白州に出て諸肌ぬぎ、各御先ニ参る御免と云
              て、肌のしはをたくり、上一文字ニ切て伏たりける、介錯ハ家人黒木仕、菩提の為ニ首ハ袋ニ入、此所
              を出、細川に送りたりとかや、生年七十三歳、此人一生礼儀正敷、其上ニ歌人ニていと殊勝也、最後ハ
              もむへき次第也と云々          (以上)

なんとも奇妙な話ではある。伊予松山の圓光寺の伝えるところは本当であろう。信隆なる人物は果たして何者か、筑前黒田家の郡氏に幕末期宗保を名乗る人が出たが、これらについても資料が少なく、わたしにとっては謎のままである。

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