綿考輯録に於いて郡宗保がよく取り上げられているのは、細川忠興の妾・松丸殿(松井興長室・古保の生母)の父であるが故だろうか。(幽齋の長兄・藤英の孫藤利の室も宗保の末娘である。)
通説としては大坂の陣に於いて、秀頼に殉じたとされる。このことは「おきく物語」でも記されており間違いのないところであろう。
お菊物語 http://www.enkoji.jp/okiku/0100.html
松山市(伊予)湊町にある圓光寺は、「豊臣秀頼の臣、郡主馬頭良列が、元和元年大阪落城の時に嫡男信隆に僧になれと遺言し、信隆はこれに従って城を脱出し、剃髪して僧となり清念と称しこの庵に来住した。そして慶安2年にこの寺を創営した」とされる。
綿考輯録は次のように記している。
・五月十八日忠興書状・別紙
郡主馬宗保合戦之節(イ刻)秀頼様御馬印を持候て、御城より十丁も出候由、もはや総敗軍ニ成候付而
御城江持て帰候由申候、此生死も不知候
・五月廿四日書状
郡主馬ハ秀頼様之御そはえ可参とて、千帖敷まてはいり候へ共、たて出しニ付、無是非千帖敷ニて腹を
きり被申候事
(中略)
急度申遣候・・・・・我々領分浦々嶋々ニ舟を逗留させ、何へんも相改可申候、主馬ニかきらす落人於有之
は、急度搦捕可申候、返々つねニ人のかヽらさる嶋々まて、念を入相改可候、不可有油断候、恐々謹言
この記事について小野武次郎は、「右五月廿四日之御書ニ而郡主馬切腹之事慥ニ候」と書いている。しかしながら(中略)以降の文章「主馬ニかきらす落人・・・」にひっかかるものがある。そして武次郎は「然ニ・・」と不思議なことをしるしている。
或人の覚書ニ、郡主馬良列事、世挙て大坂ニ而没すと思へり、案するに肯て不没、晦迹すと見へたり、其
故は三斎公八代御入城の后、奉訪公八代ニ来り泰松院ニ滞留 年月不分明 於彼院連歌
言の葉をきヽにききょうの花のもと 良列
旅のやとりを何所にかるかや 住持大淵
又或夜府外ニ逍遥し、古閑村虚空蔵堂に遊ふ、公以使者賜物あり、且短冊を送らる 宝物として今ニ存す
なくさミに御出の里の名をとへは
爰元一のこくうざうとや
其後を不知と云々 右なくさミにの歌は、清厳和尚八代ニ下られ候時の御狂歌とて、御返歌共ニ閑斎筆記
ニも有、附録ニ出す可見合、又主馬実名ハ宗保と云、良列ともいひたるにや、此説好事の人の偽作なるへ
き歟、又難波戦記・実録大全ニ、五月七日大阪落城の日、郡主馬烈しく働、後ニ秀頼公の御前ニ出申上候
ハ、腹切て御先仕、死出の御先陳、御旗奉行道案内可申とて御免を蒙り、板椽ニ伺候して家人黒木平左衛
門を呼て、汝は此切腹の小サ刀と此封文を細川越中守忠興に慥に届へしとて、是ハ年来の旧友故如此状
の内に辞世の一首あり。
流れ行身ハ捨小船しつむ共跡ふきかへせ芦のうら風
此歌の心ハ、身ハ如此なれとも、一子帯刀事松若様をいさなひ奉る、此儀を心に祝して再ひ難波の芦
の浦風とよみたる也、尤哀なり、細川と別して入魂ゆへ菩提をも奉頼との事を書きたり
宗保ハ礼義正敷人ニ而、御目通り椽の上ハ恐有とて、白州に出て諸肌ぬぎ、各御先ニ参る御免と云
て、肌のしはをたくり、上一文字ニ切て伏たりける、介錯ハ家人黒木仕、菩提の為ニ首ハ袋ニ入、此所
を出、細川に送りたりとかや、生年七十三歳、此人一生礼儀正敷、其上ニ歌人ニていと殊勝也、最後ハ
もむへき次第也と云々 (以上)
なんとも奇妙な話ではある。伊予松山の圓光寺の伝えるところは本当であろう。信隆なる人物は果たして何者か、筑前黒田家の郡氏に幕末期宗保を名乗る人が出たが、これらについても資料が少なく、わたしにとっては謎のままである。