言わなければよかったのに日記 (中公文庫) | |
中央公論社 |
読売新聞の書評欄にきょんきょんこと小泉今日子さんが登場していた。
読書家だということが文面から見て取れる。アイドルから脱皮して女優としての地歩を固めつつある彼女の
しっかりとした文章ににふらりときてしまった。秋の夜長、新たな深沢七郎氏に出会えるかもしれない。
言わなければよかったのに日記 (中公文庫) | |
中央公論社 |
読売新聞の書評欄にきょんきょんこと小泉今日子さんが登場していた。
読書家だということが文面から見て取れる。アイドルから脱皮して女優としての地歩を固めつつある彼女の
しっかりとした文章ににふらりときてしまった。秋の夜長、新たな深沢七郎氏に出会えるかもしれない。
寛永四年七月廿三日忠興は、伊丹康勝から将軍の「数寄の御成り」を受ける様薦められている。忠興は断ったのだが、康勝は翌日細川の屋敷を訪ね見分して再度薦めている。忠興は首をかしげ「上様が望んでおられるのか」と想いながらも、最終的にはこれを断っている。断りを入れるに附いても、周到な種々裏工作が為されたのは当然であろう。
熊本大学の北野隆名誉教授の次の論考に細川家の「御成屋敷」を伺わせる記述がある。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110003516635
これによると寛永九年芝御屋敷(下屋敷)に建設が進められたとある。芝御屋敷とは増上寺近く将監橋にあった屋敷であろう。(この時期、中屋敷として愛宕下に忠興屋敷があった)
豊前に在った細川家は、寛永九年十月四日肥後五十四万石の太守に任ぜられ、忠興、忠利とも江戸での申し渡しや、これに対する御禮を済ますと慌しく豊前に下った。そして年末に至り新天地である熊本(12/9、忠興は12/22八代へ着)へ慌しく引越しに当っている。そんな時期江戸に於いては、上屋敷竜口邸が類焼(12/29)している。
この時期芝御屋敷ではすでに建設が始まっていたようだが、上屋敷の燃亡により多くの家士のための長屋を建設すべく、急遽変更がされたことが伺われる。その後指図の如く落成を見たと思われるが、この芝御屋敷は先述の如く徳川家の菩提寺である増上寺に近いため、火事の発生を恐れた将軍家光により寛永廿年屋敷替えを命ぜられた。
「寛永廿年七月十五日、三縁山(増上寺)霊廟へ詣たまひ・・・・御かへさ(帰途)に細川肥後守光尚が別墅安國寺へ接近したるをもて、
轉地せらるへき旨仰下下さる」(徳川実記)
同年十月十二日これを返上、御成屋敷としての体裁を持ったこの芝御屋敷は、御成を請ける事無く約十年余をもって其役目を終えた。
尚、忠興が住まいした愛宕下の中屋敷も、忠興が八代に居城することになり廃止された。建物はそれぞれ類焼した上屋敷や、芝の下屋敷に移築された。
芝白金に下屋敷を給わるのは正保元年だとされる。
(参考:熊本史談会会員・藤本修氏の論考「藩邸沿革」全195頁による)