一御刻限一時前例之所へ罷出大御目附も
一所之事
一致出席候得者御奉行并御目附助教
学校御目附詰間へ出方有之候事
但御立後右同断
御注進左之通
一御供廻 一御殿御立
一御供廻御注進ニて詰間江御使番参例
之通相伺聴衆座ニ繰付候事
但聴衆之坐例之通尤脱劒
一東門より被為入御奉行已下御出迎例之通
御中門外ニ罷出候事
一御立御注進を承講堂南西之御入側を
通り御居間へ之方ニ罷出御次御椽を通り
北之御敷出之例之所ニ罷出候事
一御居間江被為入候上元之通退去講堂
御入側を廻東之方平日出席之所ニ座
着尤毎之座江柱一本丈下り北より横
畳五枚目ニ御前之方を奉向座着
之事
但助教之坐者例之所ニ而候事
一上江者御控本有之候事
但御入之節者同席之控本無之方ニ
申談候事
一講釈相済候得者御襖立候ニ付平伏同席ハ
直ニ初之通御入側を通御次入口二枚御屏
風之脇ニ控居候事
但召出有之候ヘハ此所ニ而御用人より
知らせ候尤御定例ニてハ無之
付紙
一大御目附ハ堂中みし側御座所之
御襖より一間南ニ下り二畳御入側後
にて東向ニ座着
但始末ニ御向詰有之
一御用人者西中之御入側二枚屏風之
脇ニ座着之事
但御用人出席御宜段御次番江差
図有之御襖明候事
一御備頭以下出役之面々は帯劒尤座着
例之通候事
一講師ハ脱劒御前之方を奉伺候事
一夫より御供廻り之御模様見計初之通御敷出
罷出御下国後御入御立之節之通夫より
詰間へ参退去之事
一御立跡より出勤奉伺御機嫌候事
但刻限次第ニハ直ニ引取候儀も有之候事
一講後ニ諸生講尺等被仰付候得ハ同席ハ
西頬之座ニ廻り可申候其節ハ猶学監江
懸合候事
秋の夜長、お暇の折には「気になる熊本」を御覧下さい。
田邊城籠城衆温井氏については、細川家を離れ井伊家に仕えたため細川家史料としては伺い知ることが出来なかった。
ところが・・・・在った。宇土細川家からもたらされたと思われる、九州大学の史料「藤孝事記」である。
〔七十二〕
今度就相煩 不出陣候 然者不慮之籠城之処 砕手無比類動候 只今以勅諚退城候 先山陰ニ可在之由 得其意候 尚此者可申候 恐々謹言
九月十二日
内 幽齋
温井 蔵殿 玄旨 判
此内蔵助ハ幽齋公御存生之内 於京都死去 於丹後籠城之時之感状也 関原へ内蔵助病気ニ付不罷越候
父子共内蔵五兵衛籠城也
内ニ籠城候事申来 幽齋公幸之儀 此者堅固ニ持候様ニと内蔵一人之様ニ被仰付 残者共ハ隠居又老人なと斗五十斗ならてハ無之由 大方一人之動之様存幽齋公被仰候由 老僧周琢龍華院主御物語也 内蔵助子は五兵衛と申 老僧ハ五兵衛息也 老僧兄弟御無之 女兄弟斗ニて相果候 五兵衛ハ後ニ井掃部殿へ被出 大坂越前之手より両陣共ニ相働 五兵衛も御覚有之様ニ承候
幽齋公が勅使を迎えられたのが九月十二日だとされるから、この感状はその日のものである。文面からすると温井内蔵助は既に城から出ていることが判る。大変貴重な文書である。
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幽齋公没後400年祭に当りご子孫をお探しするお手伝いをした。細川家から300年祭の折の名簿が送られてきて、籠城衆に温井氏の名前がある事を始めて知った。温井氏のご子孫はご出席されたのだが、これには不思議な話がある。これは全く偶然温井氏の御当主を、細川佳代子様がご存知であったことによる。なんと秋田にお住まいの方だが、「田邊城の籠城衆に温井という人が居りますが・・・」と仰ったら、「私がその子孫です」とのご返事で大変吃驚されたそうである。上記文書について温井様はご存知だろうか・・・・