津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

津々堂日常

2011-10-16 18:11:12 | 徒然

 ・「細川家家臣諸家墓所掃苔録」なんぞというものを思い立ち、自らの首を〆た感じ・・・それでもやる、固い決意。

 ・情報をいただくメールフォームに不具合があり、急遽修復す。ご迷惑をお掛けしました。

 ・侍帳の方も種々のデーターの再チェックや新たな情報の書き込みの作業中、UPの際にはご報告申上げる。

 ・もろもろの資料と並行して、相変わらず俳句に関する本を楽しんでいる。

 ・何事も師匠なしでやっているから所詮素人の域は脱し得ない。我がサイトも研究者の皆さんからすれば鼻で笑われそうだが・・?

 ・先にご紹介した「春蘭」なんぞも、放うりっぱなしで20年以上たつが、結構元気でまた残りの鉢も今花をつけている。

 ・去年熊本のY様から頂戴したささげを植えようと思い、12粒プランターで育て元気の良い6本を植え込んだが、残ったのは只1本・・(涙)

 ・ところがこれが現在見事な鞘を20個近く付けている。ただ水遣りだけ気をつけているだけなのだが・・・・

 ・グリーンカーテンは失敗と相なったが、お正月には美味しい汁粉をいただけそうである。

 ・大好きなスミレの鉢も、この夏の暑さに随分枯らしたが、全滅には至らず一安心。

 ・心配なのは東京のYさまから頂戴した沢瀉、三年目なのだがなかなか花を付けてくれない。何が原因なのか・・・

 ・最近何故か唱歌「枳殻(からたち)の花」のメロディーを口ずさんでいる。

 ・小学校の裏手にあった広い敷地の生垣が「からたち」だった。ピンポン玉よりやや小さい実を採って投げあいをしたものだ。

 ・からたちの垣根など、最近全く見受けないがあの鋭い棘で傷つけることがあるからだろう。かっては防犯上の事もあってそうしたのだろうが。

 ・唐橘の別名があるように中国から入ったとされるが、食べることは出来ないようだが、例えば酢橘みたいな使われ方は出来ないのだろうか。

 ・いろいろぐぐっていたら岡本綺堂の「亡びゆく花」という小文を見つけた。
             http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/49529_33604.html

 ・これによると春日局の菩提寺麟祥院を「からたち寺」というのだそうな。

 ・今日は斉藤立本について書くのに春日局のことをいろいろ調べていたのだが、こんなところで「おち」がついてしまった。
  (兄・斉藤立本(利宗)もからたち寺にねむる。)

 

                            こんなことをぐだぐだ考えて一日の貴重な時間を無駄使いしている。

 

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大名物・山の井肩衝

2011-10-16 10:28:02 | 歴史

 薄田泣菫に、松井康之を主人公にした「小壺狩り」という小説がある。

             http://www.aozora.gr.jp/cards/000150/card4352.html

綿考輯録(巻十八-忠興公・上p464)にこの小説の題材と思える記述があった。薄田泣菫はどこからこの情報を手に入れたのか・・・・不思議でならない。


 忠興君に康之より差上候茶入、高さ三寸八分廻り七寸也、本ハ越前ゆのふ峠の茶屋ニ有之候を、康之家来稲津忠兵衛と申者囉(もらひ)候ヘハ、安々とくれ候故、腰銭を六十遣候所斟酌いたし候を、是非に与帰候、扨傍輩共ニ見せ候ヘハ皆々笑ものニ致し候故、稲津も抛転し枕なとにせしを、岡本久右衛門と申利休児小姓立のもの、松井方ニ茶道致し居候が心付、康之ニ見せ候ヘハ、是ハ能茶入なりとて忠興君へ数寄を仕り候時出し申候、忠興君殊外御褒被成、古田織部へ見せ候へ、目か上りたらは可誉と被仰候故、織部殿へ見せに遣候処、甚誉被申候、則ふた袋被申付候ニ、此茶入之袋ニ可成きれ無之とて、京・大阪・堺方々尋、漸取出被申候由、其後忠興君へ御意ニ入候ハヽ、可差上と康之申上候ヘハ、我ハ能茶入持たる間、其方秘蔵仕候へと被仰候、此故を以康之遺物ニ差上候、然共ふた袋思召ニ不叶、御仕直、始之ふた袋ハ一度も御茶湯に御出し被成候、或時古田氏ニ御茶之時御出し被成候処、殊之外感被申、私之勢高之茶入千枚仕候を進上申、其上金千枚差上、此御茶入申請度と被申候由、其後加賀之前田肥前守殿より土井大炊頭殿を御頼、金二千枚ニ御申有之度、乍去千枚ハ只今進し、残而千枚ハ度々ニ可進と被仰候ヘハ、忠興君、度々ニ取可申齢無御座候とて御笑被成候、此処茶入山井と被名付候
        浅くともよしや又くむ人もなし我にことたる山の井の水
と云古歌の心也、松井方にてハ稲津肩付と申、世上にてハ松井肩付とも申せし也、三齋君より立孝主ニ御譲被成、丹後殿御伝り候哉、寛文十二年御勝手被差支候由ニ而、望の方へ被遣度、代金五千両之由、乍然もし綱利君ニ可被召上哉とて、先ツ御家家老迄御内談之趣有之候、此節綱利訓御在府故江戸ニ伺ニ成候処、山の井の御茶入ハ他家ニ被遣御道具ニて無之と被思召候間、被留置、宇土ニハ右茶入之代銀四百貫目追々ニ可被遣候、左候ヘハ茶入何方へも参り不申、丹後殿御勝手の足りニも成可申との思召、江戸より被仰下候(以下略)

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     サイト「茶の湯の楽しみ」 http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/index.htm から引用 
          「名物茶入」 http://members.ctknet.ne.jp/verdure/cyaire/ya.html

山の井肩衝(やまのいかたつき)
山の井肩衝
大名物古瀬戸肩衝。沢庵和尚の「浅くともよしや又汲む人もあらし我にことたる山の井の水」の歌を引いて細川三斎が命銘したもの。もと細川三斎の臣 松井佐渡守康之が所持したところから「松井肩衝」、それ以前に康之の家来 稲津忠兵衛が所持したところから「稲津肩衝」とも云い、稲津がこれを七十文で購ったところから人生七十古来稀也と「人生」(ひとよ)と三斎が名付けたという。高三寸七分三厘(11.3cm)、胴径二寸二分一厘(6.7cm)、口径一寸二分五厘(3.8cm)、底径一寸一分半(3.5cm)、胴廻七寸(21.2cm)、肩廻五寸九分(17.9cm)。口作は捻返しが深く、猪首で、肩がキッカリと衝き、丈が高く、胴の真中より少し下ったところに太くて深い沈筋一線が廻り、裾高く柿色の土見で、底は極めて細い糸切。総体に黒飴釉の中に柿色がムラムラと斑紋をなし、肩の辺に黄釉の現れた所があり、濃い黒飴釉が裾土際までなだれ置形となっている。口縁から肩先にかけて大疵繕いがある。伝来は、稲津忠兵衛~松井佐渡守康之~細川三斎~細川丹後守行孝~松平不昧。仕覆は、金なし錦(山井切と云う)、権大夫切、阿蘭陀物、蝦夷錦。袋箱、桐白木。蓋二枚。蓋箱、桐白木、書付不昧挽家、黒塗。内箱、桐白木、書付細川三斎。外箱、桐白木。御物袋、茶緞子織留。
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