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近世大名家臣団の社会構造 (文春学藝ライブラリー) |
文藝春秋 |
内容紹介
史料を渉猟し、身分内格差、禄高、結婚、養子縁組、相続など、藩に仕える武士の内実に迫る。
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近世大名家臣団の社会構造 (文春学藝ライブラリー) |
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内容紹介
同人(大村源内カ)曰、牧伊之助と云し士高麗門内土井(居)際の屋敷ニ居たり、毎日御寺 御参拝之節は御道筋ニ出、櫓座ニ座而
相待御通之節下て 御目見申上られたる御供の人ニお熟見て少ニても餘所見様する人あれハ其後御花畑ニても途中ニても逢次第ニ此
間は御供ニ立て餘所見様被致あの通ニては自然變ある時甚た覚束なし、以後は謹しまれよと戒しとなん、又厳寒中様に人有て甚た寒
く候様云へハ、左候て御座候冬て御座候と云、又或時垣を結たるに人来て何を被成候哉と云しかハ、御覧の通と答たるとぞ、隠居して
後其嗣子江戸御供ニて出立たるに、程ニて一類中集り酒宴したる処に近所の座頭来りたるに三味線を引せしニ、伊之助是は如何ニと
云、親類共今日御出立を祝し幸座頭参候間三味線をひかせ候と云しかハ、今日は主君の御発駕ニて江戸御着座の御出来を聞迄は少
も安心ならす、豈我子立を悦とて如何なるや、座頭めニは米の一升もくれて早々帰し候得と云、何も奥を覚せし候、暫して伊之助か不居
間に密ニ挙を打たるを伊之助一間ゟ聞付、忽一刀を携へ来て障子の間より窺見る、一類是は不苦事ニて御座候、外向へは聞へさる様
ニ挙を打と云しかは、伊之助されはよ何か聲高なるに依て果してもすらんと思ひ来しに、手を出して■つはと云ハとて大ニ笑も同様ニ在
ると云わるとぞ
牧家
【先祖ハ敏達帝より出で橘の姓也、薬師寺次郎左衛門公儀末流にて、攝津国河辺郡富松の城主富松与一郎元亮男也、同郡牧村に住故、牧を以家号とすと云。(綿考輯録・巻十)】
+--新五(病死)
兼重 嫡男・興相 | 善太郎・四郎右衛門
牧遠江守---尉大夫---+--新五・左馬之允---+--平左衛門------------→(新五家)
| | 虎蔵
| +--藤左衛門------------→(藤衛家)
| 二男 1 2 3
+--五助---猪之助---五助---猪之助----------→(新二家)
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| 三男(細川忠興軍功記編者)
+--丞大夫---+--権内 (病にて知行差上げ)
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+--五左衛門---+--丹右衛門---→(市右衛門家)
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+--丞大夫-----→(丞大夫家)
牧家は細川家根本家臣の一家であり、青龍寺以来の家格を持つ。
【牧丞太夫(兼重)ハ青龍寺より御奉公仕候、代々細川の御家臣筋目を以被召出、既ニ一色御討果の時も石川山にて狼烟を揚し役人也、其後小笠原少左衛門所にて黒川大炊と喧嘩 (中略)秀吉公より喧嘩は両成敗と被仰出・・(中略)立退・・夫より浪人して小西攝津守に奉公・・其後岐阜中納言殿ニも少の間奉公・・「今年(天正十九年)牧丞太夫・同新五父子帰参仕、聚楽にて御目見被仰付候」】