本来は男女共学の学校であったらしい第一高校は、OBの皆さんのご努力によってここ一両年男子の入学が増えているようだ。
女学校とばかり思い込んでいた学校だから、私はここに足を踏み入れたことがない。今般の熊本史談会での「熊本城下の坂」を勉強したとき、第一高校の敷地内にいくつかの坂があることを知った。校内は最大高低差が12mほどある。横穴古墳がいくつも存在していたりする。旧藩時代は凡そ五つのブロックに分れていて藩の高級家士の屋敷が並んでいた。南北に走る道は鞍掛坂から有吉家屋敷(現・国立病院)の前を通り、二の丸に至っていた。
つまりこのような城内を貫通する幹線道路が存在していた。現在はそれぞれ学校・病院の広大な敷地として独立していて、往時の道の存在を知らないだけの話である。(1)
一方新町御門から法華坂をのぼり空堀に添って左折する(旧法華坂)と、現在の県立美術館の入り口南にでる。目前に二ノ丸広場が広がっている。
このクランク状の場所にかつては松井家の屋敷門ともいえる「松井家預り櫓門」があり、その前には「住江門」がありここを抜けないと二ノ丸へ抜けることは出来なかった。松井家屋敷の西面は空堀でその前に法華坂があり、東面は第一高校から旧有吉屋敷前(国立病院)を抜けて熊本城の西大手門へと繋がっていた。(2)
二の丸御門からの直線の道も松井家の北側道路につながっており、まさに要衝の位置に松井家がすえられていたことが判る。(3)
ちょうど今の時期熊本では、規模日本一といわれるくまもと春の植木市が開催されている。南国熊本でも寒い日が続いたが、ここにきて随分春めいてきたから残りの期間は賑わう事であろう。この植木市は城親賢によって興されたものだとされる。没年が天正九年(1581)とされるから、433年以上の歴史を持つという事に成る。岳林寺にそのお墓があり、三賢堂にも祭られており熊本市民のよく知る処である。
寺本直廉の「古今肥後見聞雑記」に、この市が興された経緯が記されており、これをみるとほのぼのとした気にさせられる良い話である。
「市(イチ)」が始まったという事であり、植木市がたったというのは後年の事であろう。
一、古城の城は鹿子木参河守入道寂心築れしと云り、其後城越前守(親賢)居住のよし、
熊本町市日の初り城越前守古城に有し比子息の慰に成候儀、何そ珍ら敷儀致候様
にと新町へ申付られ候ヘハ、其後友枝なとの先祖新壱丁目へ市を立候て慰に出し候
由、其時より木にて獅子頭・雉子なと作りて出し候由、今に其雉子等昔の通りに不違
と云り、是熊本市(イチ)の初也といふ、一説には越前守子息機嫌不宜時右の市を拵て
見せしかハ機嫌直りしと云傳ふ