歳序雑話には次のような記事がある。
(二月)十五日、諸寺挂(カケル)涅槃像、老若男女到是為礼拝、蘭若之群集、莫過此日矣、雖非淫浮図之人、有来而多見之者、
彼岸在此月、以七日為結願、諸寺高僧碩学之比丘、述法談教化於檀那、此時因白桜開発之期、寄事於説教聴聞、而不論賢
愚、詣寺院帰路設宴、酔而皈(カエル)家、叶仏意者歟、抑(ソモソモ)又破戒之人歟、真個之道者夫寡哉、不如見花之益乎不知
歳序雑話には次のような記事がある。
(二月)十五日、諸寺挂(カケル)涅槃像、老若男女到是為礼拝、蘭若之群集、莫過此日矣、雖非淫浮図之人、有来而多見之者、
彼岸在此月、以七日為結願、諸寺高僧碩学之比丘、述法談教化於檀那、此時因白桜開発之期、寄事於説教聴聞、而不論賢
愚、詣寺院帰路設宴、酔而皈(カエル)家、叶仏意者歟、抑(ソモソモ)又破戒之人歟、真個之道者夫寡哉、不如見花之益乎不知
武士と世間 なぜ死に急ぐのか 中公新書 1703 | |
中央公論新社 |
誰かに貸したのかもしれない。どれだけ探しても本棚に見当たらない。ならばと注文をした。
細川家家臣・加賀山主馬は転び切支丹として知られるが、その父・源左衛門政房を著者・山本博文氏は「加賀山主馬の父源左衛門は、摂津高槻城主・高山右近の三男で・・・・・」と書いておられる。これを再度確認したいと思ってのことである。
主馬の娘が寺尾家に嫁ぎ嫡子・寺尾九郎右衛門を為した。九郎右衛門はのちに「如庵」と号している。
実は、右近の二男(三男?)が、大友義統をたよって豊後に入っている。子孫は昭和の始め大分市長などを勤められた。
右近のお墓なども存在しているが、代々医業を生業として「恕庵」と称したという。
織田有楽が建てた国宝に成っている御茶室「如庵」は、有楽齋のクリスチャンネームともいわれる「ジョアン」から名付けられたといわれるが、高山右近の子孫であるこれらの人達の「じょあん」も、案外意識しての事ではないのかと、ふと思ったことだった。
話は飛び過ぎたが、「加賀山主馬の父源左衛門は、摂津高槻城主・高山右近の三男で・・・・・」を、なんとか出典等を知りたいと願っている。
高山右近に係るサイトを見ても、なぜかこのことに対するコメントがない。