津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■これは困った・・「中院通勝の研究」

2014-02-22 07:51:17 | 歴史

 案の定と云うべきか、勅勘によって丹後に蟄居していた間(25歳~44歳)の中院通勝自身の情報は大変少ない。

 天正八年(1580)六月十八日、通勝、逐電、依勅勘也、在丹後国 で始まり 慶長四年(1599)十二月二日通勝は天皇より七絶を賜っている。
これが実質の勅免だとされている。十二月七日、通勝勅免出頭とある。その間十九年である。出典は「当家伝」とある。

「これは困った」と悲鳴を上げたのは、次の点である。 

    ○是歳(天正十三年・1585)通勝長男孝之誕生、幼名茶智丸(中院系図)考之の名は藤孝(幽齋)の一字をもらったものであろう。
     通勝はこれ以前に、幽齋養女、実は一色左京大夫義次女を娶っている。義次は丹後の旧主一色氏の一族かと思われるが、梅本政幸「丹後の史蹟」
     所収「一色氏家系」「丹後一色氏累代」には名を見ない。

孝之(幼名茶智丸)は、細川藤孝の四男とされる人物である。中院通勝の子であれば、藤孝(幽齋)が養子にしたとでもいうのであろうか。
出典な中院系図とされるが、WEBで公開されている 京都大学附属図書館所蔵 中院文庫目録 によると、この中に 中院家略系図 があるが、ここでは一切孝之のことなど出てはいない。(通勝の項  ・ 

これは間違いと解するのが妥当なのか、それとも幽齋の養子となって四男として扱われたのか・・・・・・困ってしまった。 

      

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■鬢付油の商売のこと

2014-02-22 07:45:28 | 熊本

 桑野豊助氏著「くまもと商家物語」を読んでいたら、びんつけ油製造所・松倉治助の大きな店構えの図絵が掲載されていた。古町のくくりの中に在るが上鍛冶屋町の一画である。いわゆる唐人町通りを挟む形で南北にあり、東側に上鍛冶屋町、西に鍛冶屋町がある。
「正法院の入口の右角がさくら屋松倉治助の店でびんつけ油の製造販売店であった。店頭に大火ばちを据え、油ぷんぷんとにおい、道行く人を楽しませた。いかにも古風な大店の風格であった」と桑野は記している。この本は昭和52年に発行された名著だが、このびんつけ油の店がいつのころまで商売をしていたのかは触れていない。

「番太日記」に鬢附之事という記事がある。

 享保の比新鳥屋町(現・新町四丁目)いのこ屋源右衛門殿、新三丁目にいのこ屋次助殿源右衛門殿弟なり、又新壱丁目に生島庄助殿、此三人熊本中の
 鬢附の極々宜敷して遠方よりも買に来る、扨其比ハ皆鬢附女のとハ四文・五文貝につめて売る、扨男のとハ一はん打つめ、こさきといふて※如此なる物
 にこさぎ、※たゝきはんにのせ角にして紙に包ミて遣ス、蛤貝多く俵につめて八代より来る、其時分ハ五十嵐鬢附といふあり、扨又鬢附売ハ鬢附油ばかり
 うりに出て外の品々はうらす、然処に新二丁目に京都より平塚藤左衛門殿といふ人来り鬢附の座出来る、いのこ屋・生島屋受売にて零落す、※ケ様ニたゝ
 きかため、半斤がめ・壱斤がめといふ、壱斤ハ二ツなり、此時より両いのこ屋つぶれになる、于時生島屋娵子おまんさまといふ、其時らく書ニ
      鬢附をそろそろねつていくしま屋 まんがよふしてなわる庄助
 前かとハ梅花油壱升樽に入口にちせんの銭にて下りはん昌致候処、新鳥屋町ひんつけ売新次郎といふ人梅花油をせんじ出しはんぜう致候ゆへ上方より
 下らす、木花ねり鬢附数ヶ年はんせう仕申候得共是茂後ハやみになり、龍のふねりひんツけはやる。
      (※はそれぞれ絵が描かれているが、表示不能) 

いつの時代も商売には栄枯衰勢がみうけられる。新鳥屋町から上鍛冶屋町は距離にしても1キロほどではないか。
なにかかかわりがあるのではないかと考えたが、享保と明治・大正時代ではあまりにもタイムラグが大きくて関係は無さそうである。 

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