案の定と云うべきか、勅勘によって丹後に蟄居していた間(25歳~44歳)の中院通勝自身の情報は大変少ない。
天正八年(1580)六月十八日、通勝、逐電、依勅勘也、在丹後国 で始まり 慶長四年(1599)十二月二日通勝は天皇より七絶を賜っている。
これが実質の勅免だとされている。十二月七日、通勝勅免出頭とある。その間十九年である。出典は「当家伝」とある。
「これは困った」と悲鳴を上げたのは、次の点である。
○是歳(天正十三年・1585)通勝長男孝之誕生、幼名茶智丸(中院系図)考之の名は藤孝(幽齋)の一字をもらったものであろう。
通勝はこれ以前に、幽齋養女、実は一色左京大夫義次女を娶っている。義次は丹後の旧主一色氏の一族かと思われるが、梅本政幸「丹後の史蹟」
所収「一色氏家系」「丹後一色氏累代」には名を見ない。
孝之(幼名茶智丸)は、細川藤孝の四男とされる人物である。中院通勝の子であれば、藤孝(幽齋)が養子にしたとでもいうのであろうか。
出典な中院系図とされるが、WEBで公開されている 京都大学附属図書館所蔵 中院文庫目録 によると、この中に 中院家略系図 があるが、ここでは一切孝之のことなど出てはいない。(通勝の項 1 ・ 2)
これは間違いと解するのが妥当なのか、それとも幽齋の養子となって四男として扱われたのか・・・・・・困ってしまった。