津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・新潮文庫「幕末史」

2014-02-24 21:42:37 | イベント

 

   幕末史 (新潮文庫)
 
      新潮社

 

実は半藤氏の本は漱石先生に関するもの以外では、「日本の一番長い日」くらいしか読んだことがない。
私は幕末の勉強はあまり気が進まない。洒脱な半藤先生はどう幕末史をとらえておられるのか、非常に興味が沸いたのである。

内容紹介

嘉永六年(一八五三)六月、ペリー率いる米艦隊が浦賀沖に出現し、役人たちは周章狼狽する。やがて京の都はテロに震えだし、坂本龍馬も非業の死を遂げる。将軍慶喜は朝敵となり、江戸城は開城、戊辰戦争が起こる。新政府が樹立され、下野した西郷隆盛は西南戦争で城山の地に没す――。波乱に満ちた二十五年間と歴史を動かした様々な男たちを、著者独自の切り口で、語り尽くす。
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■愛藤寺城か岩尾城か・・?

2014-02-24 14:45:43 | 史料

「古今肥後見聞録」に藩主居館花畑邸について次のような記述がある。

一、國君花畑の大廣間ハ先主加藤清正の時矢部岩尾の城に有しを熊本に引て被建と云 今にも其節乃材木なりたる木なとハ大竹にて今や存さるなり

処が「古城考」をみると、岩尾城においてはこれらの記述はなく、同じ矢部の愛藤寺城の項に、秀吉により諸城破却の命が出たさいこれが潰され「此城の材木を以て、熊本花畑亭の広間を作ると云う」とある。さて真実やいかにというところだが、見聞録の編者・寺本直廉の勘違いだろうか・・・?
いずれにしろずいぶん遠いが、愛藤寺城は岩尾城より一段と山奥である。どのようにして運んだのだろうか。水運を利用してのことだと思われるが、仮にそうだとしても何処まで運びだしたのか、地図を眺めていても想像もつかない。
始めは阿蘇大宮司が在城、天正の頃には犬飼備後守が城代と成り、小西時代には結城彌平次、加藤時代に至って長尾豊前や加藤正直が城代を勤めたという。寺本直廉の記録によると垂木が大竹とあるから、萱葺の屋根の大きな建物であっただろうことが判る。 
資料によると1612年(慶長十七年)に破却されたという。そんな由緒をもつ建物が花畑館に移築された。


コメント (2)
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■古今肥後見聞雑記から--小西家(行長)の家紋「剃刀請(そりうけ)」

2014-02-24 08:42:45 | 史料

寺本直廉の「古今肥後見聞雑記」をよんでいるがここに禅定寺に係る記事があった。その山門は宇土城に在った黒門を、宇土城落城後加藤清正家臣並河志摩守が請い受けて禅定寺の寺門としたと伝えられる。残念ながら蟻の害により取り壊され現在は見ることが出来ず残念ではある。
記述の中に小西氏の家紋が瓦として残されていたと記されている。破風の瓦というのがよく判らないが鬼瓦ではなかろうか。
いずれにしろ初見の史料であり、家紋の「剃刀請(そりうけ)」という名称も初めて知る珍しいものである。

 

一、熊本高麗門外禅定寺ハ先代加藤公の時家臣並河志摩守菩提寺なり (中略)

  右禅定寺焼亡之節並河志摩守より自分書院を引直し先禅定寺本堂の仮屋に建し由今以其節之侭にて並河あか書院を建直したる家也 竹のたる木を其
  侭にて今に存す 屋根下地迄其節の侭のよし草葺なり 同寺外の冠木門ハ宇土城に有し黒門也しを宇土落城の節並河持来て建るといふ 於今其節の柱
  門道具甚タ丈夫に梓の木なり 其外瓦等まて残れり破風の瓦に小西氏の紋今にあり 左に出す

                                              
                                            此紋剃刀(ソリ)請と云由

  並河志摩守か墓禅定寺にあり前廉ハ魂屋有しを中比ゟ施主そし魂屋の修覆も難成故今南門の左の方に有観音堂に引直して建たり 今の観音堂ハ並河
  の魂屋なり 彫物等多くへして金具も有念入し物也 (以下略)

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