熊本に寛永から元禄に懸けて塗師として活躍した長崎仁助という人物が在り、その作品は仁助塗と称して有名である。
續肥後先哲遺蹟(巻一・p372)からその人物をご紹介すると
長崎仁助、字道必、號一見、塗古今の名人、仁助塗と世に傳ふ、色々の細工を世に傳ふ、
和歌を善す、一生妻を迎えす、寛永十七年庚辰年生、元禄三庚午十一月十五日没、行年
五十一歳
本業と共に名を高ら〆ているのが狂歌である。「長崎一見狂歌集」というものがあるのだが、活字化されているのかどうかよく判らない。
なんとか手元に置きたいと思っているが、上妻文庫に上妻博之先生が謄写されたものがあるようなので、コピーをして手に入れたいと思っている。
全224ぺーじとあるから、一気にとは参らぬ。6~7回にわけることになるだろうから、年中に終わるかどうかも怪しい限りである。(ほかにも色々ありますから)
「續肥後先哲遺蹟」で紹介されている作品をご紹介しておこう。
一、或老人曰、長崎仁助翁は舊藩御天守方の職工にして一奇人なり、狂歌を能し世に知らる、職務に従事するや黽勉年あり、初二人扶持下されしが、官
其年功を賞して席を獨禮に進めらる、翁喜ばずして云、予は元貧賤の者なり、何ぞ席を望んやとて、一首を詠せり
獨禮が喰はるゝものであるならば
一人扶持とかへてあげましよ
右の歌に因てや、猶一人扶持の御足給扶持を下されしとぞ、翁は元飽田郡立田村居住の由、毎に通勤の往来に、立田口町の理髪床に寄、月代結髪
を頼みけるに、主人いつせん名は平八と云、少しく頓才あり、翁に乞て門に入りぬ、或時翁の髪を結びしに、天窓大に禿げ、後ろ少々髪毛あるを見て、
平八一首を詠せり
仁助さんまえの額に鳥居立
後にかみが少しまします
翁の返しに
鳥居立後にかみがますならば
いつせん上げて拝め平八
或日翁妙解寺内某院に遊びしに、夜に入りて歸りの路次、不動院に立寄んとて門戸を叩けども鎖してあけず、庫裏の方には未だ火見え煙たちけるに、
懐紙を取出し一首を詠じ、扉に張付立歸りしとぞ
不動院庫裏から煙たちのぼる
客こんからと門をせいたか
一、熊本高麗門外禪定寺は加藤侯の時、並河志摩守菩提寺なり、其砌禪定寺焼亡す、夜中より明迄に焼候由、永(ママ)崎仁助と云者の狂歌あり
ほのぼのと今朝迄焼し禪定寺
志摩かくし行米をしぞ思ふ
私に云、永崎仁助と云ふ者、専ら狂歌を詠しは、貞享元禄の年中なりし、然るに慶長の年比に仁助歌を詠しは不審なり、古の事を聞てよみしや、然れ
ども、或説には、長崎仁助と云しは狂歌詠候者、三代續て居たる由、左もあらんか
一、阿蘇山左京橋にて、長崎仁助
うそいはゞ口は左京の橋の上
まこといはふの匂こそすれ
此歌一見狂歌集には見えず、余母に聞けり、左京が橋と云は阿蘇谷の侍西左京と云者、掛始めたる故の名なりと云
一、職人一首鋟梓、世に流布せり、烏丸殿御覧ありけるに、殊勝なる狂歌の由御賞嘆ありて、一首の御詠を遊ばし、細川丹後殿家士に附して送り下し玉
ふ、則仁助に見せて、短冊は其侍もらひけりとぞ、烏丸殿より一見に御褒美の御歌
思ひきや斯るためしは不知火の
筑紫のはてに狂歌ありとは
一、山崎方侍衆の處に夜會あり、仁助もよばれ四五人参りしに、夜食殊外遅くいづれも待ちかね、漸々四つ時過出る、白魚の吸物、あさ飯なり
仁助古歌直し
あさめしのわたせるはしにおくしるの
白魚見れば夜ぞ更にけり
仁助瓜食傷して赤痢を煩ふ時に
我腹は赤地の錦ひたたれに
くだらせ玉ふ瓜のさねもり
料理人の清兵衛と云者、額を高く取あけ、髪をそり下げたる男、去方へ料理に参る、仁助も客にて参りしに、亭主仁助に云やう、清兵衛が天窓につけ
て一首と望むとき
清兵衛は額に鳥居立にけり
うしろにかみの少しまします
八代へ参り、高田蜜柑の木のもとにて
拾はゞやひとふたみかん四つ五つ
むかしながらの七つ八代
弟の身まかりけるに
さきだちてかれ行霜の弟草に
のこる老その森の下露
瀧川の余こそさきに行水の
あはれはかなくのこる身ぞ憂き
(中略)