津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■續一族? 谷忠兵衛

2014-02-11 07:58:02 | 史料

 魚住家系・續家之系の系図を見ていたら谷忠兵衛の名前があることに気づいた。

     續安藝守---亀介---+--少助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→少助家
                  |
                  +--次太夫---+--●尾崎久右衛門・妻              (不明)
                  |         |

                  |         +--●續助左衛門・妻         (不明)
                  |         |
                  |         +--●興津弥太夫・妻  弥太夫家は男子なく絶家、女子三人は彦大夫が養育、佐方平左衛門妻・志方弥次兵衛妻・魚住又助妻
                  |         |
                  |         +--●小嶋伊左衛門・妻---------------------→小嶋健太家       
                  |         |
                  |         +--●沢 ■右衛門・妻-----------------------→沢 弥門家
                  |         |
                  |         +--續 彦太夫---亀右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・→毎家 
                  |         |
                  |         +--●津田平之允・妻-----------------------→津田政之允家
                  |         |
                  |         +--●神足又兵衛・室-----------------------→神足少五郎家
                  |         |
                  |         +--谷 忠兵衛
                  |
                  +--庄右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→才七郎家
                  |
                  +--園右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 三郎家

谷忠兵衛については「新・肥後細川藩侍帳」では次のように紹介してきたが、續次太夫小の子であればまったく辻褄が合わない。
新しい発見は、又頭を悩ます結果となった。次太夫が養子にしたという事だろうか。貞享二年には乱心によって処分されている。 

七郎右衛門(御中小姓・三百石)弟
  谷 忠兵衛  (1) 御鉄炮二十挺頭 「源」 八百石  (於豊前小倉御侍帳)
           (2)御鉄炮頭衆 八百石  (肥後御入国宿割帳)
           (3)御鉄炮頭衆 千百石  (真源院様御代御侍名附)
           (4)千百石  (真源院様御代御侍免撫帳)
           (5)貞享二年七月二十七日 壱千壱百石 乱心 (※)
       父堀右近は越後春日山城主堀忠俊に仕う。ちち歿後、兄七郎右衛門と共に母の弟谷衝友に養はれ、
     谷姓を稱す。豊前に於て三齋に召出され、知行五百石。元和九年頃鉄炮頭。のち加増して千百石。

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■禿(かむろ)坂

2014-02-11 07:57:09 | 徒然

 私が20代前半から約15年ほど、お茶の稽古に通ったN先生の御宅は鷹匠町にあった。古いしもたや風の木造の二階建ての家であった。
今回史談会で「城下町の坂」を勉強するに当たり、F氏から頂戴したCDをチェックしていたら「禿(かむろ)坂」があった。
地図を見るとまさしく先生の御宅の前の道がそうであった。

 その研究資料のリストを見ている内に、「ふるさと・歴史と風土をたずねて」という、昭和55年発刊の本を持っていたことに気づいた。
取り出して目次をみると、「坂のある風景」の中に「かむろ坂」があった。その記事にあるのがこの写真である。資料によるとこの道が「禿(かむろ)坂」だそうな。
自転車の人物の右手に見える木造の家が先生の家である。なつかしい・・・・。

 チョット見えづらいが、この道は三叉路(⊥)に成っている。左手に行くとすぐにサンロード新市街のアーケード街である。右手の一角は今でも残る大丸ホテルがあり(ここの女将もお弟子さん)、南熊本駅方面へ向う大きな幹線道に面している。
写真上手へ進むと、ファッション関係の店舗が集中して有名なシャワー通り、先へ進むと西願寺の裏手から高田原地区へと向っている。

 この写真でも判るように現在の道は殆どフラットである。花畑邸につながる馬場の裏手に、追廻田畑という低地が広がっていたが、その一部に御鷹小屋があった。
旧町名は鷹匠町、御鷹は花畑邸内でも飼われており、花畑邸裏手の馬場につながる坂道が二筋ほど在った。御鷹匠はこの道を通っていたのだろう。

この追廻田畑はすっかり埋め立てられ、今では坂道であったとは想像もできないし、お茶を御稽古していた当時も「かむろ坂」という名前も聞いたことが無かった。

思いがけず30数年前の写真に遭遇して思い出に浸っている。 


 

コメント (3)
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