東京大学史料編纂所主催セミナー 「加藤清正文書研究の最前線」が開催されます。
当日受け付けも可能のようですが、事前に参加申し込みをしていた方が良いようです。下記案内をご覧ください。
春告げる臥龍梅 八代市・松井神社で満開

花岡山の中腹に「阿蘇殿の松」跡に石碑が建てられている。十二歳の若さにして豊臣秀吉により誅罰された阿蘇惟光を偲んで植えられた二本の松が在ったいたという。
惟光の死の原因は「梅北の乱」に関わってのこととされるが、詳細はウィキペディアに頼る事にする。
惟光の死によって戦国大名としての阿蘇氏は終焉を迎えることと成った。
この「阿蘇殿の松」から下ったところにある吉祥寺の上に「阿蘇の小社」(横手阿蘇神社か)がある。
寺本直廉の記録するところによると、明和期(?)にこの地にあった大木が倒れここから石棺がでて、これが惟光のものであろうと大騒ぎになったと有る。
一、祇園山の下横手村吉祥寺上に阿蘇の小社有(中略)
右阿蘇宮神殿九尺に弐間瓦葺十二体の木像あり中に観音像立り 祭十一月十五日 拝殿一間に一間瓦葺神殿に續たり 額有阿蘇宮左右に神并こま
犬等あり 手水鉢有 享保二丁酉十一月吉日横手村方吉次郎トアリ 石段上に二段 中に二十段 下に二十八段石の鳥井あり
一、右阿蘇宮の脇に大木ありしを五十年程明和より前に大風の節大木倒る故剪取て其根を堀しに石棺有之其内に十三四計の人の白骨出たり
大小の身と見へて朽て甚細く成たるあり 掘出せしもの大に驚吉祥寺に住寺僧寂庵和尚に訴ふ 則寂庵其所に至り右之様子を見届読経をして元のご
とく葬しと云々 寂庵の物語なり
按るに阿蘇惟光十三歳なるを祇園山にて誅せしを此所に葬しにてハなきや今阿蘇殿松といふは伏誅の地也 大松二株ありしか東の方一本ハ安永四年比枯
惟迎云此松の由来ハ阿蘇没落の後惟光・惟善兄弟佐々成政隈本の城に寄宿す 佐々亡き後肥後を加藤小西に分賜ふ 兄弟も又清正・行長に寓居す
于時文禄二年清正朝鮮の役に従ふ留守に讒者有之 秀吉江訴へて■肥後ハ本阿蘇家之旧領や是を以國人等志を通して既に■乱のきさし有と秀吉公
此事を信用有之て文禄二年八月十八日飽田郡阿弥陀寺山におゐて惟光を殺害せしめらる 于時十三歳也 今云阿蘇殿松ハ其伏誅の地ぞ 弟惟善ハ
幸にして無恙を慶長六年清正公私に領地與へて大宮司の職となる 今阿蘇家是なり 右文禄二年より文化十一年に至て二百二十二年松猶依然として
立たりしか此年七月十日夜南風頻吹大風にハあらされとも老木うつろに成し故にや終に根より吹倒さる 其跡ハ横手村の上東の麓なり 本文松之事有
故爰に其由来を大概に記し置もの也 阿蘇惟光之墓ハ熊府古町阿弥陀寺境内に有り
附けたし:この神社は横手の五郎を祀る神社として知られている。