先に図書館に出かけた折、熊本城防備について書かれた 「横田吉左衛門・覚」を見付け、コピーをとった。
肥後文献解題はこの文書についての解説が次のようにある。
横田吉左衛門氏連が熊本城の要所要所に対する攻防上の意見を述べたもので、巻頭に御用人遠坂関内に送った手紙三通、次に各個処に就き十ヶ条の
意見を具陳してある。寛政二年四月の記録である。横田吉左衛門諱は氏敦又氏連、横田勘左衛門房郷(横田勘左衛門房郷覚書・編者)の分家である。
二代目新五左衛門以来代々佐敷御番詰であった。六代目吉左衛門は宝暦三年七月家督佐敷御番であったが、同七年熊本に召出され御番方となった。
天明元年二月北条流の兵法指南となり、寛政元年八月御物頭列、同八年十一月御足高五十石、享和二年二月病死した。
自分も含め六代に亘り代々佐敷詰めであった吉左衛門が、熊本に召し出されたのは北条流の兵法指南の肩書が働いたのであろう。
府中周辺を見て回り、防備のありようについて献策しているが、素人には中々わかりづらい。
平時には決められていることは遺漏なくちゃんと整備しておくことが肝要だという事だろうが、献策とはこんなものかとも思ってしまう。
尚遠坂関内にあてた書状(三通)については是を略す。
覚
一、御本丸乾堀之向二ノ丸ニ所々土手・塀相見申候 万一之節二ノ丸内ニ敵を引受候時ハ自焼仕敵の居を苦しめ可
申儀勿論之儀ニ御座候 然処矢請ニ土手・塀有之候而ハ自焼仕候而も相残玉箭之障りニ相成却而仕寄之合力ニ
相成可申哉之事
一、南追手追坂段屋敷東之方矢請ニ土手・塀有之北之方御奉行丸より之矢請ニ近年並植り申候 此所ニ足を留
させ候而ハ不叶御所柄ニ而可有御座哉之事
一、監物殿屋敷下之御門西石垣と屋敷との間ハ透居申候処近年ハ屋敷より石垣迄直ニ塀懸石垣下野空地塞り申候事
一、宮内より古京町え下り申候柊木坂の向當時阿内膳殿裏門有之候処は已前ハ坂より直ニ北之方田之上迄大道御座
候ニ而は無之候哉 左候ハゝ定而北之方藪内ニハ雁木付居申たるニ而可有御座候 只今ニ而は守城堅固迄ニ相成申候 惣而
堅固而己(バカリ)第一と仕候ハ国端砦城或ハ付城等小勢ニ而守城仕後援を頼ニ仕候心得ニ而御座候 居城之縄張りハ防戦を兼不
申候而ハ開運之程無御座候 此心得を習と仕候事
一、上林水堀と川之間ニ纔(ワズカ)之土手を築上ヶ堀水を満御座候時之様子次第ニハ川水堀を一ツニ相成可申縄張■と相見へ
申候 然処近年御土居迄ニ石垣を築キ道付申たる様ニ相見申候 前々之通御座候ハゝ急場たり共一両人ニ而も
崩レ可申候得共只今之通ニては急ニ取除ケ来兼申候御利方いか程ニ可有御座哉之事
附船場町向矩藪有之候所ニ向へ雁木出来仕候各別之害ニハ成申間敷候得共目立申候
一、流長院向之挙木戸其外所々ニ城戸之左右ニ近年薄キ土居を築キ上ニ纔(ワズカ)之虎落(モガリ=竹矢来)御座候 城制ニ而は城戸之
左右膝節高ケニ土臺を仕其上にて手強く虎落ヲ誥(結カ)置候得ハ敵を請候節御責戸(ママ)を卸シ簀戸之目并左右之
虎落之目より弓・鉄炮を發し突出仕候儀 大法と奉存候 只今之通ニ而太薄キ土居之上ニ人賦りなり■候此土居之内ニ
足継を仕上り候而も両三人なりてハ上り申儀相成申間敷左候得ハ矢石乏ク此土居ハ却而敵矢除之小楯と相成可申哉之事
附流長院前土居小石垣ニ相成石之留り外ニ向キ古法ニ違候哉と相見へ候事
一、立田口城築之節ハ大陰之虎口ニ而御座候処御當家ニ相成候而陰中之虎口ニ可被遊思召
にて町外ニ屯出来仕候と承及申候処近年西ノ方より町屋三二軒も取込ニ相成北之方ニ屋敷出来仕陰中
陽之勢薄ク相成候と見及申候事
一、長六えハ惣軍之大手口にて御座候処近々ニ小屋出来仕候而屯狭く相成居申候然処定小屋ニ相成候■之様ニ承及申候
左候ハゝ往々町並ニ相成形勢を失ひ可申■と奉存候事
一、坪井方其外共ニ堀向塵防之土手高く相成処々候而ハ小石垣ニテ築立御座候大抵膝節たけより高く御座候而ハ
矢玉之妨ニ相成候ニ付次第ニ手堅く相成不申様ニ有御座候と奉存候事剪透シニ相成不申繁く候様ニ有御座度奉存候事
右共従前々之様子ニ相変居申候ニ付御要害方之儀重邊々奉恐入候得共心付申候儀を黙止居申候儀尚又恐両
中と存候ニ付覚書差上申候以上
横田吉左衛門