津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生 第102講

2014-06-05 12:53:30 | 史料

                  国の指定重要文化財である江藤家は、一般公開とは別に定期公開もなされています。ご覧になっては如何ですか・・・
                  大津町HP    http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/eto/_7681/_5776.html 

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■確執の中の細川・黒田両家

2014-06-05 07:07:26 | 人物

 細川家の豊前入国後、黒田家との確執は公然のものであり、その和解には長い時間を要している。
                細川家・黒田家の不仲    細川家・黒田家の不仲(2) 
堀内傳右衛門の「旦夕覺書」(肥後文献叢書第四巻p254)には次の様にある。

 一、三齋公豊前小倉に被成御座候時或時朝早々黒田如水老御出被成少の御用御座候て御出被成候由御取次の衆も肝をつふし即刻申上候得は
   無程御對面被成候 朝の事故御料理多分出可申と用意仕候由 偖(サテ)如水老被仰候は用の儀と申は別儀にて無御座候 互に不申通事は今以
   御同前に思召候 然共御子様の御代には互に御中能様に被成度思召により今朝御出被成候 何卒御望之様に被成度思召と御申被成候 三齋
   公もしはらく御思慮被成候ていやいや互に年寄頓て(ヤガテ)果可申候へ共子供の代の事迄申候儀ならぬと御返答被成候へはならぬかならぬか
   左様はゝ早歸候とて其儘御立被成御料理も不被召上候て御歸被成候由長岡(沼田)勘解由殿御咄承候由三盛(堀内氏)弟子平林三廸申候 三
   廸は勘解由殿右筆勤居申候 右之咄不承及候勘解由殿御咄被成候由
                忠興が小倉城に有ったのは慶長七年から元和六年の末までだが、如水は慶長九年に亡くなっているから、七年~九年の間の事であろう。
 一、黒田甲斐守様は何とそ譯御座候哉御屋敷芝松平薩摩守様御近所にて芝御屋敷より節々御供仕通候に辻番毎度下り御じぎ仕候 城下は筑前
   の内秋月にて候
 一、或時江戸櫻田黒田様御門御通被成候刻右衛門佐様(黒田忠之ヵ)御屋敷ゟ御出被成候時にて惣御供の者共何もはじぎ仕候故御小姓頭に下
   馬仕候へと被 仰付候て其後新組御案内拙者へ被 仰聞候は御城にても右衛門佐殿家来共は御しき仕候故御聞番にもあなたへ御じぎ仕候へ
   と被 仰付候尤 上は前々の通に候へ共唯今も見候通何も能く覺居候様にと 御意被成候事

藩主同士の和解は将軍家の手を煩わせることと成るが、御互いの藩邸前や城内での藩士同志の挨拶(じぎ)は普通に行われていたことが判る。 

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