五百石取りの佐藤八郎右衛門成る人物が元和三年六月に御知行を召上られている。これは「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」で伺い知ることが出来る。(下記参照)
その原因が何であるのか判らずにいたが、これがなんと二重峠で藩公の御駕籠を六尺が取り落とした責任を取った結果であることが判った。
熊本藩年表稿は「天和三年閏五月七日、綱利巳ノ上刻着座」と記す。梅雨の真っ只中の事故であったのだろう。
八郎右衛門に直接手落ちがあった訳ではないが、誠に気の毒としか言いようがない。七年後御勘気被成御免となり養嗣子・団之允が御中小姓組に召し出されたようだが、その後の事はよく判らない。
其刻佐藤八郎右衛門と申は五百石にて御鉄炮三拾挺團之允養父にて候 御知行差上候とて引籠居申坪井兼松屋敷にて候 見廻申候へは其儘被申
候は拙者儀に候へは他人にては逢不申候 久々逢不申其上今度大津にて御駕なけ御迷惑の旨承候へ其具に御咄承度と被申候故ケ様/\と咄申候
へは扨も/\難有思召事尤に候 妙解院様は御聞及可被成候 御若き時分は御短慮成儀多く御座候 或侍御駕なけ前へ御もたれ被成御座候時の事
にて御口中少御痛被遊候程の事にて津川は譯有人ゆゑ四郎右と御意被成駕の者共なくべくとは思はぬとも腹かたつはの前かた両人せいはいさせ乗
物奉行も迷惑させたと御意兎角御暇被下候と覺申候 け様の儀拙者能存咄申候 随分/\能御勤候へ拙者事御咄を承候ても不及是非仕合拙者願の
趣定て御聞可被成候如此の 御主様にはなれ申様に成行申儀は心底察候へと其儘なかれ候 尤成事と拙者も落涙仕候 八郎右衛門儀は同氏(堀内)
弾蔵母為に兄分かと覺申候 八郎右衛門は益田彌一右衛門聟にて候
佐藤八郎右衛門 天草島原の陣 「佐藤八郎右衛門鑓を合、一両人突伏せ、弓にて五六人射留申候」
(1)御詰衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)清田石見組 御弓廿張(頭) 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(4)天和三年六月五日 御知行被召上 五百石
元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付■(身に分=せがれ)団之允
御勘気被成御免、五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ被召加候