津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二重峠一件のその後

2014-06-04 21:18:52 | 人物

  五百石取りの佐藤八郎右衛門成る人物が元和三年六月に御知行を召上られている。これは「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」で伺い知ることが出来る。(下記参照)
その原因が何であるのか判らずにいたが、これがなんと二重峠で藩公の御駕籠を六尺が取り落とした責任を取った結果であることが判った。
熊本藩年表稿は「天和三年閏五月七日、綱利巳ノ上刻着座」と記す。梅雨の真っ只中の事故であったのだろう。
八郎右衛門に直接手落ちがあった訳ではないが、誠に気の毒としか言いようがない。七年後御勘気被成御免となり養嗣子・団之允が御中小姓組に召し出されたようだが、その後の事はよく判らない。

    其刻佐藤八郎右衛門と申は五百石にて御鉄炮三拾挺團之允養父にて候 御知行差上候とて引籠居申坪井兼松屋敷にて候 見廻申候へは其儘被申
    候は拙者儀に候へは他人にては逢不申候 久々逢不申其上今度大津にて御駕なけ御迷惑の旨承候へ其具に御咄承度と被申候故ケ様/\と咄申候
    へは扨も/\難有思召事尤に候 妙解院様は御聞及可被成候 御若き時分は御短慮成儀多く御座候 或侍御駕なけ前へ御もたれ被成御座候時の事
    にて御口中少御痛被遊候程の事にて津川は譯有人ゆゑ四郎右と御意被成駕の者共なくべくとは思はぬとも腹かたつはの前かた両人せいはいさせ乗
    物奉行も迷惑させたと御意兎角御暇被下候と覺申候 け様の儀拙者能存咄申候 随分/\能御勤候へ拙者事御咄を承候ても不及是非仕合拙者願の
    趣定て御聞可被成候如此の 御主様にはなれ申様に成行申儀は心底察候へと其儘なかれ候 尤成事と拙者も落涙仕候 八郎右衛門儀は同氏(堀内)
    弾蔵母為に兄分かと覺申候 八郎右衛門は益田彌一右衛門聟にて候
     

  佐藤八郎右衛門  天草島原の陣 「佐藤八郎右衛門鑓を合、一両人突伏せ、弓にて五六人射留申候」 
               (1)御詰衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)

               (2)五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
               (3)清田石見組 御弓廿張(頭) 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
               (4)天和三年六月五日 御知行被召上 五百石
                  元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付■(身に分=せがれ)団之允
                  御勘気被成御免、五人扶持廿石被下之、御中小姓与ニ被召加候

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■寺尾加賀之助のこと

2014-06-04 07:23:54 | 人物

宮本武蔵の二天一流の後継者として知られる寺尾一族に加賀之助なる人物がいる。この人も兵法に優れた人であったようだが、参勤の途中馬上で居眠りをして自分の刀を落してしまうという失態をしている。

    寺尾加賀之助と申求馬二男(?)にて御中小姓にて御供役勤江戸へ被召れ候處に鶴崎道中にて馬にて参候節雨降馬上にて定てねむり居申
    候やいか様の事か刀を落し申候 即刻心付候はゝ尋させ可申事又宿に着てもおし出し申候はゝ郡奉行承候はゝ其儘尋出可申可申候 無左候
    ともケ様の譯にてねむり覺不申落したる由申候はゝ御吟味之上にては多分不苦事と可有御座にかくし候て誰にも咄不申候て江戸へ着仕相勤
    候内に熊本ゟ申来鶴崎道中にて刀落し申候者御座候 拵等吟味仕候へは加賀之助刀に極まりたゆと申来候哉暫く仕皆共も承申候 伏見にて
    も宇治邊にも見物に参候て村井源兵衛抔も同道仕方々見物仕候時分も心に懸る様子もなく江戸にて御暇被下候 拙者も折々兵法習候て心安
    く小屋にも見舞に参候へは御暇被下不及是非候 併熊本には歸ましき迚何共思はぬ心にて小哥抔歌ひ居申候故成程若く候間江戸に致逗留
    可然と申候 其後下谷邊に罷出兵法或は手習子なと参り暫居候か後には病死仕候様に承申候残多き事に候 右の通に候へは尚以其時有様
    に鶴崎にて申出候はゝ刀も即刻出申不苦事と成行可申物をかくし申事心得違ひと存候 惣體他国は大形乗懸馬にふとんはりに刀をさし或は
    くゝり付置候 當御家中は前々よりさしなから乗り申候 ケ様事御座候故と存候 馬上にて眠り落し候ても武勇の疵に不成事殊更求馬か子にて
    兵法も覺申候へは餘人ゟは心に懸落さぬ様に可仕事御領内故に刀は出申候他国ならは吟味も成間敷候 又さしながらも眠り落し申間敷事に
    てもなく候 兎角刀を大事と心かけ候はゝ何れの道にも能く可有之候 拙者は常にいたゝく心にてぬきさし仕候  (以下略)


   +---孫之丞・勝信(夢世)------信正
   |    兵法を宮本武蔵に学び其奥旨を極む。二代信正も亦夢世と称し、子孫
   |    其業を継ぎて剣法の師範なり。寛文十二年九月十九日没す、享年六十。
   |    (五輪の書、独行行を授かる)
   |    

   +---藤兵衛・求馬助-----+---長男・左助、勝政
                                       |
                   +---二男・新助・信景
                                        |
                   +---三男・藤次、玄高
                   |         父に従ひて二天流兵法の奥旨を極め子弟を教授す。曾て水
                   |         足屏山をして「二天流兵法相傳記」を撰せしむ。
                   |         享保十六年八月十九日歿す、享年八十二。   
                   +---四男・弁助、信盛(新免氏)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・野田派二天一流剣法 
                                        |             父に就きて剣法を学び、其奥旨を極め、又宮本武蔵の家号
                   |         新免を継承す。元禄十四年七月廿五日歿す、享年三十六。
                   |
                    +---五男・加賀助
                                        |
                   +---六男・郷右衛門-----(山東流)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・兵法二天一流剣法
                                                                    二天流兵法の達人なり。初め武技を好まず山間に逃れ閉居
                                                                    三年、寒夜渓水の音を聞き兵法の奥意を悟り、鍛錬其技を極
                                                                   め遂に師範となる。延享四年九月十一日歿す、享年七十五。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする