森鴎外の「阿部一族」は、「阿部茶事談」をベースに書かれていることを先に指摘したが、この阿部茶事談の内容のいい加減さがそのまま鴎外によってコピペされ、大家の著作をしてこの事件の顛末がまさに真実を損なってしまっている。
今回の史談会で、この「阿部茶事談」をとりあげるにさいし年表を示してご説明しようと作成したものである。まさに「小説は真実よりも奇」なる事を実感する。
寛永18年
3月14日、寺本八左衛門、枕頭に殉死を願い出る。 ----→家老衆留意
3月17日、藩主忠利死去
太田小十郎正信(18)殉死
4月17日、内藤長十郎元續(17)殉死
4月26日、光貞(光尚)名代、堀平左衛門帰国「今度御供を申出シ候衆」に追い腹禁止を申し渡す(御意に背くなら跡式断絶)
4月26日、原田十次郎直之・大塚喜兵衛尉種次・橋谷市蔵重次(31)・野田喜兵衛尉重綱(69)・本庄喜助重政・林與左衛門定光・
宮永勝左衛門尉宗祐(35)・伊藤太左衛門尉方高 以上八名殉死
4月27日、右田因幡統安(64)殉死
4月27日付、寺本八左衛門正式に願い書差出す
4月28日、寺本八左衛門(54)殉死
4月29日、妙解院(忠利)遺骨、泰勝寺に収む
5月 1日、明石の御鷹春日寺の井戸に飛び込む
5月 2日、宗像加兵衛尉景定・ 同 吉太夫景好 兄弟殉死
5月 5日、光貞遺領相続の命あり、翌日登城御礼
5月19日、光尚江戸発
6月14日、光貞帰国
6月16日以前、阿部弥一右衛門尉通信・津崎五助長泰・井原十三郎吉正・小林理右衛門尉行秀 以上四名殉死
6月17・18日、田中意徳に対し殉死制止
6月19日、田中意徳殉死
6月20日、田中意徳を除く十八人に跡式言渡し
6月23日、田中意徳跡式言渡し
9月29日、光貞参勤の為発駕
寛永19年
4月 妙解院菩提寺(妙解寺)建立の為、家中以下に賦課あり(百石に三歩役、その他は一分半役)
6月12日、光貞(光尚)帰国 この秋、光尚と改名ス
寛永20年
2月13日、妙解院追福の為一寺建立、妙解寺と号す、17日まで取越法要行わる。この月遺骨を移す (江戸東海寺中妙解院同断)
2月17日、阿部権兵衛、焼香の際元結いをはらい、目安を上げる 即刻逮捕の上、組頭・藪三左衛門に御預
2月21日、阿部一族誅伐 、権兵衛も井手口に於いて「縛首」処刑さる。
3月14日、阿部権兵衛召仕以下の者、豊前の者四人、国の者八人、計十三人のうち、豊前以来の三人誅伐、他は放免さる。