一、(二代)宇右衛門儀寛文五年七月七日病死仕候付被下置候
御知行家屋敷共無相違曾祖父沢村宇右衛門(三代・友雅)江
被為拝領組外被仰付其後御備頭被仰付候
一、宇右衛門儀病気ニ付貞享三年三月七日
御知行家屋敷共無相違祖父沢村大九郎(四代・友朗)江
被為拝領沼田小兵衛組被召加其後御備頭被
仰付候
一、大九郎儀病気罷成罷成申候付被下置候御知行
家屋敷差上申度旨奉願候処元禄十五年
二月朔日如願被仰付養父沢村岩三郎(五代・衛士友常)江
家督無相違被為拝領有吉清助組被召加候
岩三郎儀其後衛士と相改申候 宝永七年
五月晦日御備頭被仰付候 享保十七年十二月
御家老役被仰付候
隆院(宗孝)様御婚礼御用ニ付而寛保元年
九月江戸江被召寄同十一月十八日御結納之為
御使者
紀州様江被指越候 此節従 紀州様御腰物
被為拝領御盃被為頂戴候 同月廿二日
御婚礼ニ付御輿請取被仰付相勤申候 同月
廿七日御三ツ目之為御祝儀 此方様ゟ
紀州様江被遊御出候付而御供被召連此節
又々従 紀州様御腰物被為拝領候
一、寛保二年四月朔日 八代姫様松平
讃岐守様江御婚禮之節衛士儀御輿渡
被仰付相勤申候 此節讃岐守様ゟも御腰物
被為拝領候 右両御婚礼御用首尾能相勤
申候由ニ而御懇之御意を以御時服品々被為
拝領候 其外於御當地も度々拝領物被仰付候
一、衛士儀同年四月江戸被指立六月當御地江
着仕候 然処同年五月ゟ病気差■申候付為
御尋度々被成下 御奉書御肴をも被為
拝領候 衛士病気色々養生仕候得共不相叶
寛保三年閏四月十七日病死仕候
澤村大学介吉重====宇右衛門友好---宇右衛門友雅---大九郎友朗
↑ ∥
+-----●--松井二平次--庄次郎友好 +---●かな
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+---松井康之------興長------寄之------直之---+-----壽之
■三代・沢村宇右衛門閉門・知行召上らる。 以下二点の資料から内容に異同が見受けられる。
・妙應院(綱利)様御代、澤村衛士様 御備頭 御妹の儀に付、世上専沙汰に及候に付、御役儀御勤成され難く、御断仰上て、御知行御屋敷差上られ候段、御内存の趣、松井求馬仰達せられ、御病気の由にて、御引込在せられ候段、御家老中様より、於江戸坂崎忠左衛門様、松月院様(木村豊持)へ、御連名の御状を以て、御内意仰越候處、右の筋至て難相済御事に付、御知行召上られ候御様子に候處、松月院様御格別なる御取成有之、御役儀をも、其儘に御勤成され候儀仰出され候間、難有次第思召候由、求馬様より、松月院様へ、御状を以て仰越され、衛士様よりも、御禮状差越され候事
(肥後文献叢書・肥後先哲遺跡、木村豊持項)
・貞享二年八月十日 (熊本藩年表稿から)
沢村宇右衛門・有吉清助・伊藤一平らが立花飛騨守関札ノ内に止宿したため閉門、なお知行は蔵納同前とし今月より当前扶持方支給 (花畑邸奉行所)
■四代・沢村友朗の墓地 七城町亀尾字北杉田2038