高祖父・上田久兵衛が若いころ、長崎→天草→八代に遊学して熊本に帰る折、川尻から船で加勢川を上り砂取で降りてその後徒歩で府中に入ったと日記に記している。川尻から歩いたほうが早かろうにとも思うのだが、疲れていたという事も有るかも知れない。
熊本市内の地図を見ると、白川の上郷あたりから、川尻の加勢川へつなげば約3.5キロほどの距離で開削をしてつなげばさぞ便利だったろうにと常々思っていたのだが、ちゃんと考えていた人が在った。
加藤清正公?・・・いやいや、それは細川忠利公である。堀内傳右衛門の「旦夕覚書」(肥後文献叢書・四 p146)に次のように記されていた。
忠利公御在江戸之時被得上意候て御下国之上にて、白川筋浅き所を御掘せ被成可成事あらば、川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様に
被成候はば、熊本賑やかに可成と思召候てそろそろと御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば、夜中にて御聞被成候て、扨々
夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て、夜中にても罷出候旨被申候へば、其儘被為召何事ぞと御意之時、唯今初て
承申候白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば、今之如く其儘にて川尻船着奉能存候子細は、熊本之町中に駄賃馬持居申者ともは川
尻往来之駄賃取候故前々ゟ馬を持居申候、長六橋邊に船着候ては駄賃馬少く成可申候、左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀成兼可申候、
何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候へば、扨々尤至極に思召候、今度御在江戸之刻御願被成候間、先少々堀候て其後ならぬと
て御止可被成と御意之旨于今其掘懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候
駄賃馬がへると日ごろ馬を持たない下級侍が、自ら馬を飼わなければ馬の絶対数が減るからまずいという話なのだろう。
いわゆる馬乗りと呼ばれる人たちが馬を持っていないということを暗に匂わせている。
それはともかく、これがつながっていれば熊本の水運も随分便利であったろうと思われる。その跡がどこなのか・・・今ではその場所は知る事も出来そうにないが興味ある話ではある。