津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■武士道―侍社会の文化と倫理

2014-06-28 22:20:15 | 書籍・読書
  武士道ー 侍社会の文化と倫理
 
      エヌティティ出版

本の内容

武士道は思弁的な教条主義を排し、現実重視と結果尊重の立場を貫く。徳川日本の力量示す、その戦略的思考と行動の論理。 

目次

第1章 「武士道」という語の登場
第2章 近世前期、一七世紀における「武士道」(高坂昌信著・小幡景憲編『甲陽軍鑑』小笠原昨雲『諸家評定』 ほか)
第3章 近世中期、一八世紀における「武士道」(山本常朝『葉隠』大道寺友山『武道初心集』 ほか)
第4章 近世後期、一九世紀における「武士道」(中村元恒『尚武論』松代版『武道初心集』 ほか)
終章 武士道の諸相(「武士道」という言葉と徳川社会における広がり武士道の本来的な内容 ほか)

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■沢村家先祖附から (ニ) 沢村宇右衛門

2014-06-28 09:07:53 | 先祖附

                          一、高祖父沢村宇右衛門儀
                             妙解院様御部屋住之節松井庄次郎と申候而
                             十七八歳之比御児小姓被召出御側江召仕候
                          一、宇右衛門儀若キ時分折々仕者等被仰付首尾能
                             仕候由ニ御座候 宇右衛門儀大坂冬之御陳之時分ハ
                             妙解院様御供仕従江戸大坂御陳場江罷越
                             申候 夏之御陳ニハ従小倉

                             妙解院様御供仕罷上申候 宇右衛門儀小倉ゟ
                             御入国之翌三年大学養子被仰付候 宇右衛門
                             儀島原御陳之節は
                             妙解院様御在江戸故御供ニ而江府罷立
                             被遊御下候 御供仕嶋原江罷越申候 原之城
                             落城之日は御本陳御小屋ニ相詰申候處
                             急ニ肥前手ゟ乗候由御先手ゟ注進仕候付
                             妙解院様被遊御出候 宇右衛門儀も御供仕三之

                             丸江乗入申候
                             妙解院様は三之丸海手ニ御本陳被為居候
                             宇右衛門儀は直ニ二之丸江乗入敵大勢本丸江
                             引取申候を言葉をかけ候へハ殿之者共五六人
                             取テ返シ両方鑓ニ而たゝき合其場ニ而二人
                             突■シ首二ツ討捕申候 其間ニ残ル者共は
                             本丸江引取申候間御本陳江持参仕右之首共
                             懸御目申候 御帰陳之上ニ而為御褒美御加増

                             三千石被為拝領都合六千石被仰付候
                          一、宇右衛門儀大学病死仕候付跡目之御知行五千石
                             被為拝領都合一万千石被為仰付其後御家老
                             役被仰付候 被下置候御知行一万千石之内
                             千石沢村八郎左衛門江内分仕度奉願候処願之通
                             被仰付八郎左衛門江内分仕候
                            (宇右衛門儀寛文五年七月七日病死仕候)
                             

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■沢村家先祖附から (一) 沢村大学吉重

2014-06-28 08:33:30 | 先祖附

                                       壱万千石 沢村衛士
                     一、先祖沢村大学儀天正十年八月上旬於丹後国
                        忠興様江足軽之者罷出申候其時分者沢村
                        才八与申候同年九月上旬丹後之屋形一色殿
                        依叛逆被召寄
                        忠興様館を被遊御手討家老之者何茂
                        御討伐之時一色殿之侍牧忠左衛門与申者
                        御小姓梶野平七を伐殺退候所を才八仕留申候

                        右同日一色殿居城弓木を鳥井と申者
                        持■候を御責被成候 大手門口の狭間より

                        鉄炮稠敷打候間手負死人数多出来
                        候得共才八鉄炮ニ而狭間を打からめ申候付
                        其後はしらみ候而手負も無御座候 左候而
                        扱ニ成城相渡申候
                     一、天正十一年閏正月下旬勢州亀山之城
                        秀吉公御責被成候時■御家中ゟ石寺五郎右衛門

                        松井佐渡守内荒木下兵衛・才八三人ならてハ
                        塀際迄付不申候
                     一、天正十二年五月朔日尾州小牧之陳ニ而大槻
                        助右衛門と申者を鉄炮ニ而打■シ申候 然処大原
                        文蔵と申者武者振能候付目懸候而七八間
                        慕参候得共彼者其場を引申候 其内ニ大槻
                        首は米田内山本又三と申者取申候而
                        秀吉公ゟ感状熨斗付之刀拝領仕候

                        又三も才八■ニ而仕合ニ罷越候由ニ而才八
                        小屋江禮ニ参候 右之合戦中一日置候而
                        濃州加賀野井之城
                        家康公ゟ御持せ被成候を二之丸迄仕■門口ニ而
                        才八鑓を合組討ニ而平井駿河と申者を
                        討捕申候 此時才八二ケ所手を負申候
                        忠興様被成 御意候ハ其方事小牧ニ而
                        一昨日手柄を仕今日又手柄之高名仕
                                   
                        無比類被思召候 其首を早々 太閤江
                        持参仕候得之由被 仰付候付 秀吉公御本陳
                        留田之寺内之前ニ御人数被立 秀吉公ハ
                        大キ成塚之上ニ被成御座候間直ニ御前江持参候

                        得は 秀吉公被成御覧是ハ平井駿河と
                        申候而此城之大将成程之者ニ而其方は何と
                        申者ぞと御尋被成候付沢村才八と申上候ヘハ覚帳ニ
                        能付置候へと御諚ニ候 重而又御意被成候は

                        越中事一昨日今日打續小牧加賀野井
                        両所之手柄無比類被思召候 此後ハ一万之
                        大将ニ被成御先手を可被仰付候而其方事も
                        立身可仕と御諚ニ候
                        天正十三年之春泉州観音寺城責之時
                        才八一番ニ参鉄炮七ツ中り候得共仕合能
                        漸玉一ツ身ニ通申候然共■不申候
                     一、天正十八年之春豆州小田原陳之節薤山之

                        出丸御乗取被成候時も才八山之手江早ク
                        参候 此時も鉄炮ニ而高腿を被打抜候 右同時
                        小田原被成御責候時仕寄を土俵ニ而
                        忠興様御自身御付被成候而才八ニも被
                        仰付候 一夜之内ニ堀端江七八間程寄せ申候
                        乍毎
                        忠興様別而被成御感候 同年之秋當原ゟ
                        直ニ奥州為御検地

                        忠興様御趣被成候時利符之城主之内之者
                        五人此方江狼藉申懸参候を則其者共を

                        西郡大炊之助三拾人衆被指添放シ国人ニ而
                        被替候 大炊之助ハ利符本丸江参右之段々
                        申内ニ科人共門口ニ而迯散申候を何も追懸
                        参候得は家ニ迯入候を家主隠置何事ぞと
                        申所を才八家主を人質ニ取申候故隠シ
                        不得出シ申候 依之御帰陳之上御知行百石

                        初而被為拝領御小姓組被 召可候 慶長五年
                        八月下旬岐阜陳之時本丸門口ニ而敵三人
                        扣候内母衣武者二人鑓長刀ニ而向候を才八
                        鑓を合手負候得共一人を組候而崖之下江
                        七八間落居候を今一人母衣かけさる武志
                        助候とて才八を一鑓突退候故組中候者之
                        首を取申候 此時才八七八ケ所手負申候
                        左候而首実検之時生捕之者中申候ハ中嶋

                        傳右衛門と申者之首之由ニ御座候
                     一、同年九月中旬於関ケ原は
                        家康公之方江才八為御使被指上候 罷帰候而
                        御合戦初り候
                        三齋様御諚ニは岐阜ニ而数ヶ所手負
                        いたし候間今日は御側ニ居候得と被仰出前後一人
                        罷在
                        忠興様御自身御働御手柄被遊候付而

                        御手傳も仕候 其節黒田甲斐守様御馳付
                        いたし候而
                        忠興様御働御手柄何も見届候間
                        家康公江可申上候条我々働之段々をも被
                        仰上候得と堅々仰候得共御返詞ニ候 御手前之
                        働ハ不被成御覧由被仰ニ付才八彼御働之
                        様子具ニ見届申候付其段申上候ヘハ甲斐守様
                        少も違不申由被仰候付左候て我々小姓

                        見届候前を可被仰上有之儀ニ而才八見届候■を
                        家康公江被仰上候 才八儀於其砌為御褒美
                        猩々緋之御羽織被為拝領候
                        文禄之比高麗御陳之刻唐人を討捕
                        申候 依之御帰朝之上御知行一倍ニ被仰付候
                        其外於伏見仕者首尾好仕丹後宮津
                        そらと申所ニ而取籠しとも搦捕申候
                     一、寛永十四年十月下旬肥前嶋原天草表江

                        切支丹一揆起申候付
                        光利様御出陳被遊候 大学儀七■八■之時
                        御供被召連御在陳中諸事支配宜被
                        思召上候由ニ而御帰陳之上従
                        忠利様為御使片山自庵を下之各々
                        御懇之御諚ニ而御座候 其後山本三左衛門
                        御使ニ而国俊之御差料之御腰物被為
                        拝領候 大学儀段々御加増被為拝領都合

                        五千石被為仰付御城代役被仰付候

                                      

                        (只今をチェック中・・・・・)

                        

                       
  

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