酒井左衛門尉様江光姫様御祝言の日は芝の御広間御番にて詰居申候、拙者(堀内傳右衛門)前四尺程間有之折節遠江様被成御座候
御敷臺の上左の方のぬくい板には蜂須賀飛騨守様御座候、皆共詰居候御廣間一間上に左京大夫様讃岐守様刑部様御兄弟何も被成御
座候、飛騨守殿夫へ御座候ては皆共是にありにくゝ御座候、是へと左京大夫御あいさつ被成候へは飛騨守様御手つかれ私儀は勝手に
是か能御座候由御こしの御跡より被成御座候筈故右の御挨拶と存候、しはらく仕候て 妙解院様(忠利公)御出被遊御からかみを少御明
け御こし出候を御覧可被成と思召御右の方御覧被遊候へは御一門様方被成御座候故行列を見可申との御意にて御急き飛騨守様被成
御座候向御右の方御玄関の戸を御とらへ御覧被成候内に御落涙を見申候、是は午前様被成御座候はゝと被思召上たると奉存、其儘落
涙仕難儀を仕候、其前に承候へは奥にて御一人の御世話と承及申候、扨亦其前に水戸様奥へ御出被成光姫様御供に被召遣候女中何
れも上中共に御召出し御意被成候は何も女にても能承候へ、右衛門殿は小身には候へとも先祖の武功により如此皆共も安楽に被成御
座候、越中殿は家も能大にて候、左衛門尉は小身にても右の通候間此趣を女にても能存候て必々何事によらすせまきの廣きのと部屋々
々の事にても不申様に心得候へと委細の御意と其前承及ひたる衆何も扨々御太切思召如斯 御前様御存生ならはと拙者式迄奉存候故
右の節落涙難儀いたし候、唯今調候内にも其時同前に落涙仕候
これは旦夕覚書(p214)にある文章だが、綱利の娘・光姫の祝言の際の有様で大変興味深いものである。
文中妙解院とあるのは明らかな間違いで、妙應院(綱利)のことである。
綱利の正室・本源院はこの時期すでに亡いとされるが、その没年は延宝三年である。(32歳)水戸中納言頼房の実娘であり、嫡子である松平讃岐守頼重の養女として綱利に嫁いでいる。文中に出てくる水戸様とは、光圀公であろうか。華やかな顔ぶれの婚儀が行われたことが判るが、貴重な証言ともいえる文章である。