津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■上妻本「阿部茶事談」 一

2014-06-11 17:58:07 | 人物


   阿部茶事談叓跡録                                 01  

   忠利公肥後國拝領之事

たくひありと誰かはいはむ末匂ふ世に名も高き白菊の栄へ

いやます武功の花 

羽林源忠利公ハ、参議宰相源忠興公御譲りを受継せ給ひ、豊後豊

前三拾萬石余を領し給ひ、小倉の城在豊前にまし/\けるに、寛永九年九

月十三日 忠利公發小倉為参勤江府に趣せ給ふ所に奉書到来セり。

其文ニ曰

   一筆令啓達候、當地御参勤之儀冣前十月中旬於江戸御参候様
   ニとの儀申入候得共、貴殿之御事儀早々参勤可然候、為其以飛脚申入候、
                                          恐々謹言

      九月十六(三)日     稲葉丹後守
                      酒井讃岐守
        細川越中守殿    土井大炊頭
              人々御中

   尚々早々御参尤ニ候、以上 

右三人連署之外、稲葉利勝唯寄書副之使、速ニ参府(と申候得共御急)
不及申候得共、御いそき御下尤ニ候、去なからあまり御いそぎ候ハゝ路次ニて
不審可仕候間、其御心得尤ニ候、将又三斎此間御そくさいニて候、今日
御目見候、一段御念頃ともニ候、何事も/\面上可申上候、恐々謹言

      九月十九日        稲葉丹後守
         忠利様

 やがて/\奉待候、以上 

斯て江府御着座有りけるに、十月三日亦奉書あり其書曰                 02

  明日御登城候間、其御心得ニ而上屋敷ニ而可被成御待候、時分之儀ハ自是
  可申達候、御進物入申間敷候、半袴ニ而御出仕可然候、恐々謹言

      十月三日         稲葉丹後守
                   酒井讃岐守
         細川越中守殿    土井大炊頭
            人々御中 

依之、十月四日御登城有たる所に

将軍家光公忠利公ニ肥後国十二郡豊後三郡都合五拾四万石を賜、是加藤

氏豊臣忠廣之闕国也けるとかや。 

御諚曰、我聞、卿父三斎屢竭忠節於 大神君、且卿尽心于我于西域

以奉公我思、父子之勤勞而一切不忘焉、是故授肥後國、忠利公稽首

拝謝して退き給ふ、重而嫡男 六丸君を共ニ御登城有て、奉謝賜大

國、皈国之暇を告給ふ、其時又 将軍家直賜所在大坂之石炮大筒小

筒并玉薬且以所帯之正宗之脇差 手授て、

釣命曰、卿を島津氏有通家好、雖然方今登庸則居何處亦無疑乎、

忠利公拝伏奉謝賜懇意有余、則發江府、十一月至小倉給ふ、於爰、

有吉頼母英貴・米田監物是季・小笠原備前長之・志水伯耆元直

を肥後へ遣し、熊本・八代之両城を令請取、長岡佐渡守興長を豊

前に残し、小笠原右近大夫忠直(眞)に引渡し、同十二月九日肥後熊本の

城ニ御着座有りて、諸士に加恩授地、国政執行ひ給ふ、四民蒙其恩澤、御

政の難有事をよろこひ、萬歳を祝しける、同十四年冬肥後之一島

天草寺沢忠高領地、肥後(前)有馬松倉勝家領内百姓等数千人結黨、

復■耶蘇之邪法する、依之西國甚騒動す、釣命ニよつて

忠利公・光尚公・騎士・歩卒二萬八千六百人之人数卒給ひ、一揆為            03

征伐原城に至り給ひ上使松平信綱・戸田氏鉄と心を合せ、城を攻るの謀

略をなし給ふ 本より 忠利公ハ古今独歩の良将にして敵の動静を察

し給ふに、其言葉符節を合する如くなれハ信綱・氏鉄其外攻手の諸将

其謀を承伏せすと云事なし、諸将の陣営ハ一揆のため夜討数多

有と云共 忠利公の御陳所は大手にして甚だ城に近かりけれ共、其備への

節制厳にして懈怠なけれハ夜打思ひもよらす、其猛威に恐れ落城近き

にあらん事を嘆きける処、寛永十五年二月廿七日鍋島氏上使の下知を

背ひて出丸を攻抜、是を見るより諸軍一同ニ惣攻有り 忠利公の士益田

弥一右衛門一番に乗入其外河喜多・津川・池永・都甲・後藤なと云騎士歩卒

続て攻入一揆も今日を限りと防き、我々敵味方の矢石甚だ烈敷其戦ひ

急也、討死手負甚多しといへ共、其を不顧乗越/\すゝミけるに本丸にして一揆の

大将大矢野四郎時貞をそ陣佐左衛門打取る、岡本安右衛門火を放つて城を

焼く、於爰同廿八日原城落去して西国一事ニ静謐すること 忠利公御父

子の御武功抜群なるにより 釣命有りて其賞不斜、此度之諸将ノ上に

冠たり、御凱陳の後其戦功有し諸士には賞・加恩の地を授け給ふ、又戦死の

輩の遺跡子孫幼少たりといへ共無相違是を給ハり、領国の諸浪士・戦

死の者には其妻子ニ月俸を授給ふ、他国の浪士の軍後熊本へ来る

者にハ設饗応、袷一重・白銀十枚宛賜之各奉謝退出す、此度

戦死二百七拾四人・手負千八百弐十六人也、討死為追善於安国寺佛

事を執行し給ひ 忠利公御父子辱くも自ら御焼香ありけれハ是を

見聞の輩士ハ云不及心なき奴僕雑人に至る迄、領内他邦ニおいても 

御仁政の難有事を奉感賞、此君の為に命を捧ん事塵芥よりも惜からすと          04

感涙を流し勇みける、況や高禄を賜ひ朝夕君邊に勤仕して蒙

御高恩を面々忠情を尽さぬハなし

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