阿部茶事談叓跡録 01
忠利公肥後國拝領之事
たくひありと誰かはいはむ末匂ふ世に名も高き白菊の栄へ
いやます武功の花
羽林源忠利公ハ、参議宰相源忠興公御譲りを受継せ給ひ、豊後豊
前三拾萬石余を領し給ひ、小倉の城在豊前にまし/\けるに、寛永九年九
月十三日 忠利公發小倉為参勤江府に趣せ給ふ所に奉書到来セり。
其文ニ曰
一筆令啓達候、當地御参勤之儀冣前十月中旬於江戸御参候様
ニとの儀申入候得共、貴殿之御事儀早々参勤可然候、為其以飛脚申入候、
恐々謹言
九月十六(三)日 稲葉丹後守
酒井讃岐守
細川越中守殿 土井大炊頭
人々御中
尚々早々御参尤ニ候、以上
右三人連署之外、稲葉利勝唯寄書副之使、速ニ参府(と申候得共御急)
不及申候得共、御いそき御下尤ニ候、去なからあまり御いそぎ候ハゝ路次ニて
不審可仕候間、其御心得尤ニ候、将又三斎此間御そくさいニて候、今日
御目見候、一段御念頃ともニ候、何事も/\面上可申上候、恐々謹言
九月十九日 稲葉丹後守
忠利様
やがて/\奉待候、以上
斯て江府御着座有りけるに、十月三日亦奉書あり其書曰 02
明日御登城候間、其御心得ニ而上屋敷ニ而可被成御待候、時分之儀ハ自是
可申達候、御進物入申間敷候、半袴ニ而御出仕可然候、恐々謹言
十月三日 稲葉丹後守
酒井讃岐守
細川越中守殿 土井大炊頭
人々御中
依之、十月四日御登城有たる所に
将軍家光公忠利公ニ肥後国十二郡豊後三郡都合五拾四万石を賜、是加藤
氏豊臣忠廣之闕国也けるとかや。
御諚曰、我聞、卿父三斎屢竭忠節於 大神君、且卿尽心于我于西域
以奉公我思、父子之勤勞而一切不忘焉、是故授肥後國、忠利公稽首
拝謝して退き給ふ、重而嫡男 六丸君を共ニ御登城有て、奉謝賜大
國、皈国之暇を告給ふ、其時又 将軍家直賜所在大坂之石炮大筒小
筒并玉薬且以所帯之正宗之脇差 手授て、
釣命曰、卿を島津氏有通家好、雖然方今登庸則居何處亦無疑乎、
忠利公拝伏奉謝賜懇意有余、則發江府、十一月至小倉給ふ、於爰、
有吉頼母英貴・米田監物是季・小笠原備前長之・志水伯耆元直
を肥後へ遣し、熊本・八代之両城を令請取、長岡佐渡守興長を豊
前に残し、小笠原右近大夫忠直(眞)に引渡し、同十二月九日肥後熊本の
城ニ御着座有りて、諸士に加恩授地、国政執行ひ給ふ、四民蒙其恩澤、御
政の難有事をよろこひ、萬歳を祝しける、同十四年冬肥後之一島
天草寺沢忠高領地、肥後(前)有馬松倉勝家領内百姓等数千人結黨、
復■耶蘇之邪法する、依之西國甚騒動す、釣命ニよつて
忠利公・光尚公・騎士・歩卒二萬八千六百人之人数卒給ひ、一揆為 03
征伐原城に至り給ひ上使松平信綱・戸田氏鉄と心を合せ、城を攻るの謀
略をなし給ふ 本より 忠利公ハ古今独歩の良将にして敵の動静を察
し給ふに、其言葉符節を合する如くなれハ信綱・氏鉄其外攻手の諸将
其謀を承伏せすと云事なし、諸将の陣営ハ一揆のため夜討数多
有と云共 忠利公の御陳所は大手にして甚だ城に近かりけれ共、其備への
節制厳にして懈怠なけれハ夜打思ひもよらす、其猛威に恐れ落城近き
にあらん事を嘆きける処、寛永十五年二月廿七日鍋島氏上使の下知を
背ひて出丸を攻抜、是を見るより諸軍一同ニ惣攻有り 忠利公の士益田
弥一右衛門一番に乗入其外河喜多・津川・池永・都甲・後藤なと云騎士歩卒
続て攻入一揆も今日を限りと防き、我々敵味方の矢石甚だ烈敷其戦ひ
急也、討死手負甚多しといへ共、其を不顧乗越/\すゝミけるに本丸にして一揆の
大将大矢野四郎時貞をそ陣佐左衛門打取る、岡本安右衛門火を放つて城を
焼く、於爰同廿八日原城落去して西国一事ニ静謐すること 忠利公御父
子の御武功抜群なるにより 釣命有りて其賞不斜、此度之諸将ノ上に
冠たり、御凱陳の後其戦功有し諸士には賞・加恩の地を授け給ふ、又戦死の
輩の遺跡子孫幼少たりといへ共無相違是を給ハり、領国の諸浪士・戦
死の者には其妻子ニ月俸を授給ふ、他国の浪士の軍後熊本へ来る
者にハ設饗応、袷一重・白銀十枚宛賜之各奉謝退出す、此度
戦死二百七拾四人・手負千八百弐十六人也、討死為追善於安国寺佛
事を執行し給ひ 忠利公御父子辱くも自ら御焼香ありけれハ是を
見聞の輩士ハ云不及心なき奴僕雑人に至る迄、領内他邦ニおいても
御仁政の難有事を奉感賞、此君の為に命を捧ん事塵芥よりも惜からすと 04
感涙を流し勇みける、況や高禄を賜ひ朝夕君邊に勤仕して蒙
御高恩を面々忠情を尽さぬハなし