津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■61年目の鎮魂の日

2014-06-26 17:15:50 | 熊本

 数日降り続いていた雨が白川を駈け下り、子飼橋の左岸を大きく削り私の通っていた小学校の生徒27人が亡くなり行方不明となった。
多分今頃の時間だと思うが、私が住んでいた出水町でも急激に水位が上がり、暫くすると前の道は濁流が渦巻く凄い流れとなった。
後の話によると、氾濫した白川の水が豊肥線が走る土手でせき止められたため、これを決壊させたためだという話が流布した。
嘘か本当か知らないが、あの水の急激な上昇を考えると、本当かも知れないと思ったものだ。少し薄暗くなったころには外に出ると腰の高さほどの水位となった。命からがら非難をして命を拾った。翌日帰ってみると、我が家の前の家が三軒程流されていて、突き井戸の水がこんこんと奇麗な水を吹きだしていたことを鮮明に覚えている。我が家は鴨居の高さまで水がきて、戦後のささやかな暮らしを支えていた大方の財産を失った。それから十数年少し傾いたままの家で生活をした。出水町という町の名もなんとも恨めしいものであった。

今日は時折の小雨が降ったがどんよりとした一日であった。涙雨ですよ・・・・・
タイピングしながらも目頭が熱くなってきます。決して忘れる事のない鎮魂の日は61年目となりました。 合掌 

                                                「6・26水害」から61年 熊本市で慰霊祭2014年06月26日

 

 
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■正固なる人物

2014-06-26 07:13:58 | 人物

 昨日 熊本城炎上・・吉田如雪の日記から を書いたが、この吉田如雪は正固と名乗っている。
実は上妻本「阿部茶事談」においては、最初に筆写をしたと思われる人の花押があり「正固」とあった。何方だろうといろいろ調べている内に吉田如雪に行き着いたのだ。そんな中で吉田如雪の日記が手元にあったことを思い出し、資料の山をかき分けていたら幸いにも見つけ出して昨日ご紹介したという次第である。

因みに吉田如雪は文化十四年(1817)生まれ、幼名鳩太郎、阿部茶事談が筆写されたのは天保十一年(1840)だから、鳩太郎二十四歳の時である。 

 

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