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歳時記百話 - 季を生きる (中公新書) |
中央公論新社 |
歳時記百話
季を生きる
高橋睦郎 著
歳時記は俳句を詠む人だけのものではない。季節を知り、人生を生き抜くため、私たちが祖先から受け継いできた知恵が詰まっている。すべての日本人の心情と生活の原点なのだ。本書では四季を彩る花々を中心に、雲雀などの鳥、薫風などの気象、涅槃会や酉の市など年中行事、そして芭蕉忌に至るまで、一年の折々にあらわれる豊富な事物を、古今東西の句歌詩文を通して味わう。巻末に俳人・宇多喜代子氏との対談を収録。
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歳時記百話 - 季を生きる (中公新書) |
中央公論新社 |
歳時記百話
季を生きる
高橋睦郎 著
歳時記は俳句を詠む人だけのものではない。季節を知り、人生を生き抜くため、私たちが祖先から受け継いできた知恵が詰まっている。すべての日本人の心情と生活の原点なのだ。本書では四季を彩る花々を中心に、雲雀などの鳥、薫風などの気象、涅槃会や酉の市など年中行事、そして芭蕉忌に至るまで、一年の折々にあらわれる豊富な事物を、古今東西の句歌詩文を通して味わう。巻末に俳人・宇多喜代子氏との対談を収録。
高見権右衛門家の事
阿部茶事談に登場する権右衛門は二代目権右衛門である。その奥方は松平下総守忠弘に嫁した、忠利女藤姫附の御女中で在った。
又、権右衛門の曾孫・権右衛門は養子で井関左傳次の子であり、宮川團四郎孫であるという。(旦夕覚書p266)
この井関左傳次は與右衛門の嫡子だそうだが、その系統は侍帳では絶えているように思われる。
○ 井関与右衛門 有吉頼母允組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
四百五十石 寛文七年七月二十一日 煩ニ付知行被差上候 跡目被仰付候 (※)
■ 高見 怘(マモル) 【丹後以来】 (南東22-4)
和田但馬守
和田兵衛尉(新九郎)
和田長左衛門
1、和田庄五郎・重治(高見権右衛門)
江戸江相詰衆 「丹後」和田 百石 (於豊前小倉御侍帳)・・高見権左衛門
始ハ大和大納言秀長の小姓なりしを御もらい被成、文禄二年弐百石被下、関原事の
後忠隆君の御供仕加賀に罷越、高野山にて御剃髪の後筑前中納言ニ居、秀秋御卒
去の後浪人いたし候処、慶長十六年帰参、五百石拝領なり、御番頭被仰付、其砌高
見権右衛門と改、高見ハ母方の名字なり
阿部兄弟仕者被仰付たるハ右権右衛門子の権右衛門なり(綿考輯録・巻十四)
原城にて武功の面々御褒美被下候
黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
2、高見権右衛門
(1)鉄炮頭 三百五十石 御側弓鉄炮頭并組外衆 (肥後御入国宿割帳)
阿部一族誅伐に当り裏手門よりの討手被仰付、後加増三百石
(2)御使番衆 八百弐拾壱石四斗 (真源院様御代御侍名附)
(3)八百二十一石 (真源院様御代御侍免撫帳)
3、権之允
4、三右衛門 (松井家蔵八代町図に八代御城附として屋敷の表示が見える)
5、権右衛門 養子・井関左傳次・息
6、藤太(権右衛門)
7、権之助
8、右源太 享和二年三月~文化二年七月(病死)中小姓頭
9、数衛 文化十一年十月(中小姓頭)~文化十三年 用人
権右衛門
名は武久、通称権右衛門。英邁剛毅の士にして、藩に仕へて使番、
中小姓、用人等を勤む。食禄千五百石。
天保十一年十二月二十二日没す、享年五十六。
10、嶋之助(権右衛門) 旧知九百五十石
天保十三年(中着座)~安政二年三月 小姓頭(初嶋之助)
安政二年五月~安政二年十月 番頭
安政四年閏五月~万延元年十二月 用人
11、嶋之助 無役着座 九百五十石
細川慶順公御書出(文久元年・万延二年)九百五十石
11、尚熊(怘) 九百石
光尚公御家督御相續之事并拾九人之遺跡被 仰付御憐■(表示不可)之事
かきりあれはけふぬきすつるふち衣はてなきものハ涙なからに、御中陰の日
数へけれハ同年五月五日 光尚公御家督御相續有て将軍家御拝
謁目出度かりし事共にて、多年勤労の面々御代替之時にあい、新知御加
恩(増)役替其人の勤め品々ニより御恵ミあり中にも此度先君殉死の十九人
の遺跡未だ幼少の男子たりといへとも無相違遺跡家屋敷も被下置老母
後家等の男子なき輩には月俸を給り家屋敷拝領、作事も 上ゟ被仰付何ニ付ても 10
少も難儀に及はさる如くに被仰付候事偏ニ御仁心の程難有事共也、是偏に
先君に奉對忠情を尽せしを感し思召ての御事なるに、阿部弥一右衛門か於遺跡ハ
嫡子阿部権兵衛其外相残候弟共ニ千余石の御知行を夫/\に割授給ふ、嫡子
権兵衛ハ始権十郎と云時於原城働有て新知弐百石拝領す、其弟市太夫・五太
夫も是又原城ニて手柄ありて弐百石宛被下置、市太夫ハ始ゟ 光尚公ニ勤仕セり
何も有難旨面には歓の色有とはいへ共、別而嫡子権太夫ハ亡父の遺跡おのれ一人ニ
相続せすして、弟共分知之事不平にして案外の至りかなとつふやきけるが
述懐の恨甚敷亡父以来の世上の評判彼是世の中物憂やおもひけん、おのづから
世の交りも疎に成り鬱々として月日をは送りける
妙解院殿御一周忌御法事 附殉死の子供御焼香申上候節阿部権兵衛述懐髷を切事
光陰矢ノ如くいつしか寛永十九年三月十七日ハ 先君妙解院殿御一周忌ニ當りけれは自京都大徳寺
天祐和尚下向有て重き御作善有けると也、御當日ニハ 尊君への御焼香
遊し夫ゟ忝も 光尚公十九人の位牌にも御焼香遊しける、かゝる難有御
吊にあふ事忠情を感し思召の故也、誠に冥加の程恐れ有、殉死十九人の子
供年齢も御焼香を申上候程の者ニハ御焼香被仰付、、騎士の列は御紋付御
上下同御時服拝領し着して御焼香を申上候、御焼香不申上御寺詰難成
後家女子の類ハ御香奠を拝領す、誠ニ以御仁恵の鰥寡孤獨に及事難有
共也言語筆紙にも述がたし人皆感涙を催す中に
かりける事〇なるに阿部権兵衛か所存こそ本心ならぬ事共也、親々の存生座配
のことく次第を守り御焼香申上ける時阿部権兵衛ハ尊靈御焼香申
上けると一同ニ己か髷を押切て備へ置て退出す、詰衆之を見て法外の仕方
これ本心の事にあらすと各立懸り押留て其子細を問うに遁世の由 11
述懐の情をのぶといへ共、時節所柄を不顧かゝる厳重の御法会の座席前
代未聞の事共也、則 光尚公達 尊聴けれハ甚以御機嫌悪敷早速
禁籠被 仰付、残る兄弟共権兵衛儀かゝる不所存 上を不憚仕方御咎之趣兎
角述るに言葉なく唯恐入、門戸を閉静まりかへりて居りたりける、権兵衛身上御仕置の筋いかゝ
被仰付候やらんと親族打寄安き心も無き内に空敷月日を送りける